たまたま執筆の必要から脇道に深入りした。その過程で昔から気になっていた童謡について、ちょっと調べてみた。小学校の音楽の教科書の片隅に載っていた短い唄。「
だれが風を見たでしょう」で始まる詞は素朴だがしみじみ奥が深い。子供心にもその不思議さは伝わった。だからこそ半世紀を経て記憶しているのだ。
その歌詞が英国ヴィクトリア朝の閨秀詩人
クリスティーナ・ロセッティ(高名な画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの実妹)の手になる事実は漠然と承知していた。
そういえば拙宅に彼女の古い童謡詩集が確かあったはずだ。
書庫奥から捜し出したのは "
Sing-Song: A Nursery Rhyme Book"(1872)。架蔵するのは勿論その覆刻版だ(ほるぷ出版刊、1980)。久しぶりに箱から出したら黴だらけで驚いた。三方金の豪華本。目次を繰ると、おお、あるではないか。
題して "Who has seen the wind?"― たった二連の詩なので全文を引こう。
Who has seen the wind
Neither I nor you
But when the leaves hang trembling
The wind is passing thro
Who has seen the wind
Neither you nor I
But when the trees bow down their heads
The wind is passing by.
この短い詩はわが国でも早くから人口に膾炙している。その嚆矢となったのは1921(大正十)年4月、児童雑誌『赤い鳥』に
西条八十が寄せた訳詩「風」である。
誰(たあれ)が風を見たでせう?
僕もあなたも見やしない。
けれど木の葉を顫(ふる)はせて
風は通りぬけてゆく。 *原文は総ルビ
実に見事な訳しっぷりだ。原詩に忠実であるばかりか、「七・五」「七・五」と行毎にきちんと音数を揃えた詩句のリズミカルな口調のよさにはちょっと舌を巻く。そのあとの連も紹介したいのだが、西条八十の著作権が未だ有効であることに鑑み、ここまでで遠慮しておこう。
同じ邦訳でも、口調に配慮しない訳業はちっとも愛誦されない。例に挙げるのも気が引けるが、『クリスチナ・ロセッティ詩抄』(岩波文庫、1940)所収の
入江直祐による訳詩はその最たるものだ。
誰が一體 風を見た。
私もあなたも見たことがないが
枝の垂葉(たれは)がゆれるとき
風が通つてゐるのです。
なんともはや、藪から棒に「
誰が一體 風を見た。」で始まる冒頭も無骨だし、二行目の「
私もあなたも見たことがないが」で大いに落胆する。情趣を欠くこと甚だしい。これぢゃあ誰も口ずさみたくならないよ。
そこへいくと次の
木島始の訳(調べたが初出書誌不明)はさすがに上出来だ。
風をみたひとが いるかしら?
あなたも わたしも 見ちゃいません
でも 葉っぱが 垂れて ふるえていたら
風が 吹きすぎているのです
一行目の「
風をみたひとが いるかしら?」が秀逸。題名も「
風をみたひと」だ。
結論を云うなら、誰ひとり西条八十の名訳を超えられなかったのは明らかだろう。平易で味わい深く、好もしい韻律を備えた、今なお至高の邦語訳なのである。
その声価を更に高めたのは西条八十が訳詩を発表した二か月後、同じ『赤い鳥』誌(1921年6月号)に楽譜付きで掲載された
草川信作曲の童謡「風」であろう。歌詞は4月号所収の西条訳をそのまま踏襲している。
それから四十年ほど経って、何も知らない田舎の小学生がふと心惹かれたのは、間違いなくこの西条=草川版の「風」だった。さすがに仮名遣いは違ったが。
恥を忍んで即席の拙訳も掲げておく。やっぱり駄目かなあ。
風を見た人、誰かいる?
私もあなたも見なかった
だけど木の葉をそよがせて
風はするりと吹き過ぎる。
風を見た人、誰かいる?
あなたも私も見なかった
でも木々が頭(こうべ)を垂れるとき
風はさらりと吹き抜ける。