回顧展「
ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」の記憶も急速に遠のいた感がある。葉山展が終了した一月末からまだ四箇月にもならないのだが、去るものは日々に疎しの諺どおり、なんだか遙か遠い昔の出来事のようにも思う。
実は同展はその後も国内を巡回し、名古屋市美術館を経て今週末まで岡山県立美術館で開催中なのである。出品者の末席に連なる小生には各館から鄭重な招待状が届いてはいるものの、なにぶん遠方ゆえ出掛けるのも儘ならない。六月からはいよいよ舞台は
福島県立美術館に移る(
→同館HPの告知)。
この展覧会はもともと福島県立美術館が中心になって企画・構成したものと聞く。同館には少なからぬベン・シャーン作品が収蔵され、過去に大規模な回顧展の開催実績もあるうえ、地道に研究を続けてきた学芸員もいる。だから推進役たる資格を十二分に備えているだろうし、いわば満を持して開催に臨んだことは想像に難くない。
既に新聞報道もなされたから些か旧聞に属する話題だが、同展出品作のうち米国の美術館から貸し出された約七十点が福島にだけは巡回しないというので大いに物議を醸したらしい。「福島民報」から引く(1月25日付)。
神奈川、愛知、岡山を巡回した後、6月から福島市の県立美術館で開かれる「ベン・シャーン展」の作品約500点のうち、米国の美術館七館が貸し出した約70点が県立美術館では展示されないことが24日、分かった。東京電力福島第一原発事故による放射線の影響を心配した米国側が本県での公開を渋り、県立美術館は展示を断念した。
ベン・シャーンは帝政ロシア領生まれの米国の芸術家。県立美術館はシャーンの作品収集に努めており、米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」をテーマにした「ラッキードラゴン」などを所蔵している。神奈川県立近代、名古屋市、岡山県立の各美術館と連携して展覧会を企画した。
開催は震災前に決まっていたが、原発事故後、米国の美術館の一館が本県での展示を拒否し、他の館も「開催直前に判断する」との考えを示した。県立美術館は放射線量の測定結果を伝えるなどして理解を得ようとしたが進展がなかった。
ハーバード大付属フォッグ美術館やニューヨーク近代美術館などの所蔵作品が本県では見ることができない。県立美術館は代わりに作品の写真パネル展示など、対応策を検討している。
県立美術館が公表している館内の放射線量(昨年12月27日測定)は玄関が毎時0・14マイクロシーベルト、一階の企画展示室が0・06~0・08マイクロシーベルト。県立美術館での開催は6月3日から7月16日まで。
ほぼ同内容の記事は毎日、朝日など全国紙にも載った。そのうち最も早く、最も突っ込んで取材している「毎日新聞」の山田孝男記者の署名記事「
福島には届かない絵」から引く(1月23日、連載コラム「風知草」)。
[...] 15日朝、Eテレの「日曜美術館」では画家ベン・シャーン(1898~1969)の特集をやっていた。この放映のあと、神奈川県立近代美術館・葉山(葉山町)で開催中の「ベン・シャーン展」(29日まで)は、たちまち人出が増えた。
私も見に行き、受付で聞いて気になったことがある。同展はこの先、名古屋、岡山、福島市を巡回するが、約500の展示作品のうち、アメリカの六つの美術館から借り受けた70点は岡山まで。つまり、福島へは行かないというのだ。
なぜか。福島県立美術館(福島市)に聞くと、案の定、理由は放射能だった。
アメリカの某美術館ははじめから「福島はダメだ」と言った。残る五つは「福島については直前に判断しましょう」と言った。福島の担当者は「放射線量の情報開示に努めますから」と粘ったが、色よい返事がない。固執していては何も進まないのであきらめたという。
不思議な皮肉だと思う。シャーンは核兵器に関心を示した画家だ。一方、福島県立美術館は20世紀アメリカの具象絵画の収集に努め、シャーンの作品を増やしてきた。その福島で本格的な「ベン・シャーン展」の準備が進んでいた折も折、核の平和利用施設が暴発してシャーンと福島を遠ざけた。
1954年、南太平洋でアメリカが水爆実験をした。近くにいた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰をかぶり、無線長が死んだ。シャーンはこの事件に触発され、「ラッキードラゴン(=福竜の英訳)」シリーズを描いた。その主要な一部は福島県立美術館にある。廃墟の広島をモチーフにした晩年の版画も同館にある。
同館所蔵のシャーン作品は今回の巡回展の重要な部分を占めるが、福島では、シャーンの仕事の全貌を紹介することができないのである。
シャーンは帝政ロシア(現在のリトアニア)生まれのユダヤ系アメリカ人だ。石版画職人として生計を立て、絵画からポスター、本の装丁、挿絵、レコードジャケットに至るまで印象深い作品を残した。[...]
日本で大規模な「ベン・シャーン展」が開かれるのは高度成長絶頂期の70年、バブル崩壊直後の91年に続いて3度目。シャーン作品を持っている各美術館の専門家が今回の巡回展を企画して以来、実現まで10年の歳月を要したという。
図録や「芸術新潮」1月号にベン・シャーンの解説を書いている福島県立美術館の荒木康子学芸員(51)に「最も福島に来てほしかった作品は何か」と尋ねると、荒木は「解放」(1945年、ニューヨーク近代美術館蔵)を挙げた。廃墟の鉄柱にぶら下がって遊ぶ子どもたち。表題とは裏腹に表情が暗く、うつろだ。背景に壊れたビルとガレキ。主題はパリ解放と終戦である。
「これ、今の福島と同じだなって思うんです」と荒木。無邪気に見える子どもが、変わり果てた街から鋭く感じ取る不安。確かに似ている。
文中で荒木学芸員が言及しているベン・シャーンの《
解放 Liberation》とはこういう絵だ(
→これ)。なるほど誰の目にも「そっくりそのままだ」と映る。これこそ福島に招来さるべき絵だったのにと惜しまれる。
管見した限りネット上では「残念だ」「悔しい」「そうなるのもやむなし」といった反応が大半のようだが、なかには出品を拒んだ米国の美術館を悪しざまに罵り、作品を借りられなかった主催者側の弱腰を詰る向きもなくはない。そう憤りたくなる気持ちもわかる。「
数多くの社会の不正義に厳しく迫るとともに、人々の怒りや哀しみ、痛み、そして喜びに深い共感をよせ」たベン・シャーンの仕事を回顧することを通し、「
3.11東日本大震災を経験した私たちには、新たな眼でシャーンの作品を見つめるチャンスを与えられたのではないかと考え」るとHPで明確に記す今回の展覧会は、福島会場でこそ十全にその力を発揮するに違いないからだ。もしもベン・シャーンが存命中だったらどうだろう。必ずや福島の地で自作が公開されるのを望んだのではないか。それには殆ど議論の余地はないように思う。
とはいうものの、今回の貸主は画家本人でなく美術館である。作品を毀損から護り後世に伝えるのを本務とする美術館が、大地震に見舞われたばかりか、放射能拡散の危機に瀕する地域での展覧会への貸出を躊躇するのは理の当然だろう。事実、震災直後、海外からの出品が取り消され、いくつもの展覧会が開催中止に追い込まれたのは記憶に新しかろう(葉山の美術館でもジョルジョ・モランディ展が取り止めになった)。開催を目前に控えたベン・シャーン展もまた存亡の瀬戸際にあったことは想像に難くない。たとい巡回館全部でないにせよ、約束どおり作品を日本に貸与した米国の美術館は、その厚情と英断を称讃されこそすれ、決して非難されるべき筋合はないと小生は考える。チェルノブイリの大事故の直後、キエフやリヴォフの美術館に誰が心安く作品を貸し出そうとしただろうか。
更に附言するならば、この展覧会(第一会場の初日は昨年12月3日)に作品を貸し出すか否かの最終的決断が下されたのは会期の始まる数箇月前、恐らくは昨夏か、遅くとも秋口だったと推察されよう。その時点で米国政府は自国民が福島第一原発から五十マイル(八十キロ)以内に立ち入らないよう厳しく勧告していた(勧告自体の当否はひとまず措く。この勧告内容が「二十キロ以内」に緩和されたのは、管見の限りでは10月7日になってからである)。
周知のように、美術作品の海外貸出・返却には所蔵館員の同行が不可欠とされる(「クーリエ」と称する)。同展の場合、館員は巡回最初の葉山と、最終会場の福島と、双方の館をクーリエとして訪れ、作品の状態をつぶさに点検する責を担う(空路移送時には同道する)。米国の各美術館が昨夏(あるいは初秋)の段階で、まだ立ち入りの許されない福島市に立地する館(原発から約六十四キロ)への作品貸出を忌避したのは当然であり(作品が回収できなくなる)、非の打ち処なく正当な判断というほかない。小生が彼らの立場だったなら、きっと同じように行動するだろう。