二年ほど前に露語版「
ペーチャと狼」の覆刻盤が人知れず出た。その歴史的価値は計り知れないのだが殆ど話題にならず黙殺された模様である。それではあんまりなので昨春プロコフィエフ生誕百二十年を祝う「キジェー中尉」上映会(
→この催し)の折に少しだけ音を流して紹介した。
昨日に引き続き、改めてこの貴重な「ペーチャ」録音を聴いてみるのも悪くあるまい。
プロコフィエフ:
ペーチャと狼 Петя и волк
語り/ナターリヤ・サーツ Наталия Ильинична Сац
エヴゲニー・スヴェトラーノフ指揮
ソヴィエト国立交響楽団
1960年代?、モスクワ
Vенеция CDVE04392 (2010)
ここでナレーションを担当する
ナターリヤ・サーツ(1903~1993)とはほかでもない、1936年プロコフィエフに「ペーチャと狼」を依嘱した当のご本人なのだ。この一事だけからも当盤がいかに値千金か察しられよう。
ナターリヤ・サーツについては拙ブログでも話題にしたことがある。
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(1)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(2)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(3)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(4)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(5)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(6)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(7)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(8)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(9)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(10)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(11)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(12)
→「ピーターと狼」はこうして生まれた(13)
三年前ここまで書いて力尽きた。ずっと中断したままなのが恥ずかしい。
無闇矢鱈と長いので(4)から彼女のキャリアを抜粋すると、
彼女の名はナターリヤ・サーツ Nataliya Sats (Наталия Сац 1903‐1993)といった。
ナターリヤの父はイリヤ・サーツ Ilya Sats(1875‐1912)という作曲家で、スタニスラフスキーに請われて創成期のモスクワ芸術座で座付作曲家を務め、メーテルリンクの『青い鳥』などいくつもの舞台音楽を書いたが、三十七の若さで急逝した。幼くして父を失ったサーツ家はただちに困窮するが、幼いナターリヤは周囲のモスクワ演劇人、とりわけ演出家ワフタンゴフの励ましを受けて、彼女のふたつの情熱、すなわち音楽と演劇の道を模索し始める。
1917年のロシア革命とそれに引き続く激動の時代がナターリヤの情熱に拍車をかけた。1918年、ピアノ伴奏による人形劇を上演したのを手始めに、子供たちを観客とする公演活動にヴォランティアで情熱的に打ち込んだ。彼女の結成した小劇団は常打ち小屋をもたず、団員も無給だったが、やがて彼女の試みが次世代の育成に心を砕く革命政府の認めるところとなり、1921年に公立の「モスクワ児童劇場」として正式に発足をみた。このときナターリヤ・サーツは十八歳の若さだった。
サーツは「アラビアン・ナイト」から「ハイアワサ」まで、古今の多くの物語に想を得るとともに、同時代にも題材を得ながら、座付作曲家レオニド・ポロヴィンキンと組んで多くの新作を送り出した。演劇、オペラ、バレエ、人形劇、サーカス、パントマイムなど既存のジャンルから子供たちにアピールする要素を抽出し、それを独自のやり方で組み合わせ、心弾むスペクタクルを創り上げた。児童演劇のパイオニアとしての彼女の果敢な営みは、やがてソ連国内のみならず広く世界に喧伝され、モスクワを訪れた文化人たちはこぞって彼女の劇場に足を運ぶようになる。
二児の父親としてプロコフィエフが子供たちのための音楽に強い関心を抱いたのは当然の成り行きだろう。家族連れでナターリヤ・サーツの児童劇場に何度も足を運んだというのも理解できる。サーツが自伝で回想するように、プロコフィエフが彼女の劇場のために作曲するという計画は驚くほどの短期間のうちに発案され、実行に移されたのである。構想から初演までの猶予期間はほんの一か月足らず。しかも作曲家は台本まで自作しているのだ。
当時のサーツはソ連が誇る若き文化人として名声の絶頂にあり、その児童劇場の活動は国際的に喧伝されていた(英・仏・独語版の解説書が刊行され、日本でも熱心に紹介された)。1936年には彼女の「モスクワ中央児童劇場」はモスクワ中心部のスヴェルドルフ広場に面した一等地(ボリショイ劇場にほど近い場所)に移転を果たしたばかりだった。ソ連の規範的な作曲家たらんと欲するプロコフィエフの眼に、サーツの姿が心強く好もしい協働者と映ったのも不思議ではない。
(まだ聴きかけ)