今年は春の到来が遅くなった分、早春から盛春を経て初夏に到る歩みが恐ろしく早く感じる。さっき近隣を散歩したら八重桜は疾うに盛りを過ぎ、街路樹の西洋橡(つまりマロニエですな)に紅色の花が咲き出した。こうなるともう夏の兆しである。
改めて四季の移ろいを音楽で聴くことにしよう。少し前にも紹介した曲なので今日は趣向を変え、殆ど話題にならないこのディスクを。
グラズノーフ:
バレエ音楽「四季 Времена Года」
演奏会用円舞曲 第一番、第二番
秋山和慶指揮
ヴァンクーヴァー交響楽団1988年頃?、ヴァンクーヴァー、オーフィアム
CBC Records SMCD 5100 (1991)
思いもよらぬ名演、と評したらヴァーサタイルなマエストロに礼を失することになろう。
秋山和慶はストコフスキ翁に非凡な実力を認められ、三十二歳の若さでアメリカ交響楽団の後事を託されたほどの逸材なのだ。その耳の良さ、バランス感覚、統率能力は同世代のどんな指揮者にも引けをとらない。彼は1972年から84年まで長きにわたりヴァンクーヴァー交響楽団の常任指揮者の地位にあった。
否、そんな事実を書き連ねる位なら論より証拠、手っ取り早くこの秀逸なCDを聴いて貰うに如くはない。入手困難なのが悔やまれる程の見事さなのだ。
作曲者による自作自演を嚆矢とするグラズノーフ「四季」のディスコグラフィをざっとお浚いしておこうか。架蔵する限りなので遺漏はご容赦いただきたい。
アレクサンドル・グラズノーフ/交響楽団(ロンドン、1929)
ロジェ・デゾルミエール/フランス放送国立管弦楽団(1950頃)
アルベール・ヴォルフ/パリ音楽院管弦楽団(1956)
ロバート・アーヴィング/コンサート・アーツ管弦楽団(NY、1960)
ボリス・ハイキン/モスクワ放送交響楽団(1963)
エルネスト・アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団(1966)
エヴゲニー・ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(実況、1969)
アンドレ・コステラネッツ/管弦楽団(NY、1971)
オトマール・マーガ/ニュルンベルク交響楽団(1975)
エヴゲニー・スヴェトラーノフ/フィルハーモニア管弦楽団(ロンドン、1977)オンドレイ・レナールト/スロヴァキア放送交響楽団(ブラチスラヴァ、1987)ネーメ・ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(1987)
わが秋山和慶/ヴァンクーヴァー盤は正確な録音年代が未詳なのが残念だが、どうやらこの辺りに位置するようだ。
ヴラジーミル・アシュケナージ/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1990)
エド・デ・ヴァールト/ミネソタ管弦楽団(1993)
アレクサンドル・アニシモフ指揮/モスクワ交響楽団(1995)
ホセ・セレブリエール/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(2004)
アレクサンドル・ラザレフ/シドニー交響楽団(2006)ドミトリー・キタエンコ/ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団(2018)
自作自演盤は歴史的価値こそ絶大だが録音は貧弱、ムラヴィンスキー盤も出所不明の実況で音が劣悪、あちこち恣意的なカットが著しく感興を削ぐ。
という次第で古い録音中で今なお傾聴に値するのはデゾルミエール、ヴォルフ、アーヴィング、ハイキン、アンセルメということになろうか。いずれも舞台音楽の指揮に長けた指揮者だけに臨場感ある個性的な演奏である。とりわけハイキン盤は古今無双の出来映えだ。ただし、どれも申し合わせたように末尾の「秋」に慣習的なカットがある(「サテュロスのヴァリアシオン Variation du Satyre」)。
その意味からも初の完全全曲録音となったスヴェトラーノフ盤の価値は高いが、慎重に構え過ぎたのか軽快なリズム感や瑞々しい生命力の発露に欠け、音楽が随所で停滞する。英国団体との相性の問題かもしれない。真摯な演奏であり世評は高いものの推奨するには些か躊躇する。
80年代以降の録音はディジタル時代に入って光彩陸離たる輝きは獲得したものの、演奏の質は帯に短し襷に長し、団栗の背比べさながら、感心したものは見当たらない。無能な指揮者も入り混じり、どうにも玉石混淆の印象が否めない。
そのなかにあって秋山和慶盤はやはり出色の演奏だ。作品の本質に迫った唯一の完全全曲盤として今なお愛聴する次第である。