もはや夜半を過ぎて漸く「
人間の声 La voix humaine」を聴くべき時刻になったようだ。明るいうちからこの痛切な歌芝居を耳にするものぢゃない。
オペラにまるきり不案内な小生だが、この一人歌劇に限っては珍しく熟知している。フェリシティ・ロット、ジェシー・ノーマンからあまた日本人歌手まで、様々な実演に接した。会場は英京ロイヤル・アルバート・ホールから川村記念美術館の展示室まで。古今のディスクは大半を架蔵し永く愛聴してきた(
→所蔵音源一覧)。
だから自信をもって云い切ることができる。この曲の最も優れたディスク二種はどちらも日本人により唄われ、奏されたものだ。歌唱はいずれも日本語による。
"Kyoko Ito: My Favorite Songs"
プーランク:
歌劇「声」(訳詞/若杉弘)
ソプラノ/伊藤京子
若杉弘指揮
東京フィルハーモニー交響楽団1971年11月29日(放送日)、東京、NHKスタジオ
ビクター VICC-60259 (2001)
"Cocteau/ Poulenc: La voix humaine"
プーランク:
歌劇「声」(訳詞/若杉弘)
ソプラノ/堀江眞知子
秋山和慶指揮
東京交響楽団1993年4月12、13日、東京、アバコ第一スタジオ
日本コロムビア GES-10269 (1993、自主制作盤)
創唱者ドニーズ・デュヴァルの不朽の名盤を差し置いて日本語の歌唱を推すのは、偏にこれら二種類の演奏の卓越の故なのだが、聴き手である当方が隅々までニュアンスに通じているからこそ素晴らしさに感応できる、日本ならではの事情も無視できない。
これら二つの演奏が素晴らしいのはまず
若杉弘の訳詞が飛び切り秀逸だという一事にかかっている。コクトーの台詞に極力寄り添いつつ、耳から聴く日本語として無理がなく自然、まるでこれがオリジナルのように響く。
伊藤京子はこの版の初演者だそうだが、息を呑むほどの絶唱ぶり。視覚の援けがなくとも深刻なドラマの渦中(取るに足らぬ男女の諍いなのだが)に引き込まれる。NHKのアーカイヴに録音が残されていたのはなんという僥倖だろう!
堀江眞知子の歌唱とて一歩も引けを取らない。あらゆる言葉のニュアンスは細やかに吟味され、
秋山和慶の驚くほど丹念な伴奏指揮と相俟って、比類なき名唱名演を創り出した。このオペラを自らライフワークと呼ぶ堀江さんは私財を投じて初のスタジオ録音を実現させ、東京、広島、米国シラキュースでの上演を成し遂げた。このディスクはほとんど流通していないが、小生はたまたま御当人からじかに入手した(最初の購入者だった由)。これぞ八方手を尽くしても聴くに値する必携盤だろう。