今日も上京、用事が済むと足早にとって返し、デスクワークの続きに戻ろうとして疲れを覚える。そこで何か心弾む音楽で景気づけようと取り出したのは吉祥寺で先月たまたま手にしたプーランクのCD。
プーランク:
ニ台のピアノのための協奏曲*
クロード・ジェルヴェーズによるフランス組曲**
田園の奏楽***
ピアノ/クレール・シュヴァリエ+ヨス・ファン・インメルセール*
クラヴサン/ヨス・ファン・インメルセール**、カテジナ・フロボコヴァー***
ヨス・ファン・インメルセール指揮
アニマ・エテルナ・ブリュッヘ
2008年、ブリュッヘ?
Zig-Zag ZZT 110403 (2011)
両大戦間、それも1930年前後の音楽に古楽器演奏で挑むのはどう考えても邪道というか、禁じ手に近い行為である。今は廃れたフランス古来の管楽器(古式のフレンチ・ホルン、バソンなど)が用いられるのはまあ当然として、弦楽がノン・ヴィブラート奏法を用いるのは全く正当な根拠ももたぬ時代錯誤であろう(遺された当時の録音では盛んにヴィブラートが聴こえる)。その奇妙さは当事者インメルセール自ら百も承知している筈だ。この録音で聴こえるのはむしろ反実仮想、ファンテジーとして夢想されたもうひとつの「あり得ない過去」なのだろう。
一聴した印象は悪くない。ひどく懐かしい音がするし、ハッとするような瞬間にも事欠かない。細部までよく練られた新鮮な演奏とこれを評する人もいよう。だがそこには多くの不審が付き纏い、胡散臭さが最後まで拭えないのもまた事実なのだ。
二台のピアノのための協奏曲に用いられたのはニュアンスに富むが音量の小さなエラール製のピアノ。いずれも1900年前後の製作だという。1933年の初演時に用いられたピアノがなんだったのか詳らかにしないが、これがプーランクの思い描いた音なのだと云われても「う~ん、なんだかなあ」というのが正直な感想。もともとがモーツァルトの今日的な模倣作として書かれた曲だからといって、ここまで古風な音が果たして「正しい」と云えるのだろうか。とても丁寧な演奏であることは認めるが、弾けるようなウィットに不足するのは否めまい。
更に疑わしいのはワンダ・ランドフスカ女史からの註文で書かれたクラヴサン協奏曲「
田園の奏楽 Concert champêtre」(1927~28)だろう。周知のとおり女史のチェンバロは大きな音のするよう特注したプレイエル社製の近代楽器なのだから、プーランクが念頭に置いた音は今日われらの知る「オーセンティックな」古楽器とは似ても似つかぬ豪奢で騒がしい音色の鍵盤楽器なのだ。それなのにインメルセールはわざわざ古楽器(の現代コピー)を用いて録音する。独奏者フロボコヴァーの演奏にケチをつける気は毛頭ないが、そもそもこれはバロック鍵盤音楽をピアノで奏するのとは逆の意味で、やってはならぬ違反行為なのではないのか。このCDを「どう考えても邪道」で「禁じ手に近い」と難じたのはそういう意味からである。
「
フランス組曲」もおんなじだ。プーランクは16世紀の先人ジェルヴェーズの楽曲に遙か思いを馳せつつ、その顰みに倣った20世紀音楽を書こうとしたのではなかったのか。そこに古楽器のアプローチで臨んででしまうなら、「古くて新しい」パロディやパスティーシュとしての創意工夫は雲散霧消する。これではいかん。
そもそも本アルバムはカヴァーの装丁からしていい加減。プーランクの横顔を一筆書きふうに描いた
ジャン・コクトーの素描(
→これ)が掲げられ、「コクトーのデッサン、1920年頃」とある。御冗談でショ! これは1963年1月のプーランクの急逝を惜しんだコクトーが追悼LP用に痛恨の想いを籠めて新作した素描なのだ。そのコクトーもあとを追うように同年秋に亡くなってしまうのだが。