1月23日。今回の倫敦滞在中で最もハードな一日となろう。ナショナル・ギャラリーに
レオナルド・ダ・ヴィンチの展覧会を観に行く。そう書くといかにも簡単そうだが実際には至難の業だ。昨秋からこの二月上旬まで、会期全日の前売券は早々と完売し、ネット上では数万円のプレミアム付で売買されている由。正規の手段で観るのなら僅少な当日券を求めて朝早くから美術館前に並ぶほかない。先日のこと、念のため美術館まで赴いて係員に尋ねたところ、「六時半には館に来て、この場所で列に並ぶように」と指示されたのである。
なので今日いよいよ意を決して赴くことにした。幸い天候は穏やかで風も吹かず、耐えられぬほど寒くもない。月曜なら多少は混雑も緩和するのではとの思惑もあってのことだ。早朝五時前に起床、ヒートテック下着、ホッカイロ、折畳椅子など装備万端を整えるとテムズ河畔の宿をいざ出発、まだ周囲は真っ暗だ。
六時少し前にトラファルガー広場に到着。朝まだきというのに美術館前にはもう百人ほどが屯している。とるものもとりあえず行列の驥尾に附す。開館は十時、それまで四時間ひたすら寒空の下で待つほかない。前後の人たちの話によると、売り出される当日券はきっかり八百枚。ひとり二枚まで購入可能だという。ともあれ入館できることだけは間違いなさそうで、ほっと胸を撫で下ろす。
今回の展覧会 "
Leonardo da Vinci: Painter at the court of Milan" はレオナルド展としては空前にして(恐らく)絶後、真作(あるいは真作に準ずる)絵画が十点も並ぶのは劃期的な出来事だ。なにしろ現存するレオナルドの絵画作品は、疑念の残る作品を含めても二十点未満。万能の天才は多忙だったし、完全主義者レオナルドは制作に恐ろしく時間を要したのだ。
出品作九十三点中、レオナルド作と認定された十枚のタブローは以下のとおり。
■ 音楽家の肖像 1486~87頃 ミラノ、アンブロジアーナ絵画館 →①
■ 白貂を抱く婦人 1489~90頃 クラクフ、チャルトリスキ・コレクション →②
■ ベル・フェロニエール 1493~94頃 パリ、ルーヴル美術館 →③
■ 聖ヒエロニムス(未完) 1488~90年頃 ヴァティカーノ美術館 →④
■ 岩窟の聖母 1483(~85頃) パリ、ルーヴル美術館 →⑤ ↑⑥
■ 岩窟の聖母 1491/92~99、1506~08 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
■ リッタの聖母子 1491~95頃 ペテルブルグ、エルミタージュ美術館 →⑦
■ サルヴァトール・ムンディ 1499頃以降 個人蔵 →⑧
■ バーリントン画稿 1499~1500頃 ロンドン、ナショナル・ギャラリー →⑨
■ 紡錘棒を持つ聖母子(弟子との合作) 1499頃以降 バックルー公爵家 →⑩これだけの作品が一堂に会するのだから凄い。空前絶後とは誇張ではないのだ。
さて寒空の下で四時間を過ごすのは誰にとっても辛い体験だ。だがそこは流石に英国人たち。見ず知らず同士がすぐさま打ち解け四方山話に花を咲かす。こうすることで寒さも退屈も幾分か紛れようというものだ。小生がニッポン人と知るや、すかさず尋ねてきた、フクシマはどうなっている? お前の住まいは近くなのか? 子供たちの健康は大丈夫なのか? 等々。そうこうするうち空が白んできた。
並ぶ場所は美術館の旧館と新館の間に挟まれた谷間のような路地。日本から折畳椅子を持参したのと、思いのほか冷え込みが緩んだ朝だったせいで、凍てつくような寒さではなく、しんどさもまあ程々。鷽替神事で亀戸天神に並ぶのと大差はない。とはいえ、九時を回ったあたりから足下の鋪石からじわじわ寒気が忍び寄ってきて、まだなのかと頻りに時計を覗き見る。この最後の一時間が辛かった。
十時開扉。先頭から少しずつ動き出したが、ひとりずつ枚数を確認しながらの販売なので列は容易に進まない。三十分ほどして漸く建物のなかに入れた。その瞬間、誰もが異口同音に "Humm... warm!" と思わず口にするのが微笑ましい。順番が来てチケットを購入できたのが11時過ぎ。展示室に入れるのは11時半からと指示されたので、何はともあれトイレに駆け込む。
指定の11時半を少し回ったあたりで徐に展示室に入場。もうそれだけで幸福な達成感が漲るのが我ながら可笑しい。なにしろ五時間半も待ったのだ!
どの部屋も人で溢れている。ただし汗牛充棟という程の混雑でもないので鑑賞にさして支障はない。なので展示室毎にざっと一巡して作品をひとあたり眺め渡したあと、いくつかを重点的に至近距離から観察する方法を採ることにした。云わば緩急自在のレオナルド探索である。以下はその際の鑑賞メモ。
■ 第一室 「
ミラノの音楽家: 静かなる革命」
レオナルド/絵画1、素描3 その他/絵画2、素描1、金工2
いきなり正面にミラノのアンブロジアーナ絵画館の《
音楽家の肖像》
→①が鎮座する。本展はこれを正真正銘レオナルドの筆と位置づけるのだが、一見して明暗描写がいかにも硬く、モデリングにも不正確さが際立ち、どう贔屓目にみてもレオナルド作とは思えない。画集で観たときと少しも変わらぬ印象だ。他の素描類も含め、この部屋にはさして魅力を感じなかったので雑踏を避け短時間でさっと通過。
■ 第二室 「
美と愛: レオナルドの女性肖像画」
レオナルド/絵画2、素描7 その他/絵画3
この部屋の主はポーランドのクラクフから招来された《
白貂を抱く婦人》
→②とルーヴルの《
ベル・フェロニエール》
→③の二大美女。モデルはいずれもミラノ宮廷の貴婦人、前者はチェチリア・ガッレラーニ、後者はルクレツィア・クリヴェッリともベアトリーチェ・デステともいわれる。前者はかつて来日時に穴の開くほど観察したが、後者はこれが初めての見参。一見した印象はかなり異なるのだが、共に高貴な気品に満ち、レオナルドの真作に間違いなく、完成度も甲乙つけがたい。前に横浜で観たときも思ったが、前者の姫君の右手の霊妙さ、膝に抱かれた白貂の描写の克明さといったらもはや神技の域にある。後者は上半身のみで両手を欠くが、それを補って余りあるのが翳りに満ちた貌と眼差の深い神秘性だ。この二枚に加え、同じ部屋では英国王室コレクションの逸品中の逸品素描《
両手の習作》(
→これ)がさりげなく飾られるのがこよなき眼福である。通常はワシントンの油彩画《ジネヴラ・ベンチ》の習作とされる同素描を、本展ではクラクフの《ガッレラーニ》と関連づけようとしているらしい。何はともあれ、この三作を同時に一室で観られたという一事だけでも、苦労してここまで来た甲斐があろうというものだ。
■ 第三室 「
肉体と精神: 苦行の聖ヒエロニムス」
レオナルド/絵画1、素描11
ヴァティカーノから齎された未完の大作《
聖ヒエロニムス》
→④をめぐる一室。苦悶の表情と動作、筋肉と骨格、人体解剖。背景に粗描された岩山や建物まで考察。
■ 第四室 「
聖なるものを描く: 岩窟の聖母」
レオナルド/絵画2、素描9 その他/絵画4、素描4
本展の要をなす大きな展示室。ここにパリとロンドン、瓜二つの大作《
岩窟の聖母》
→⑤ ⑥が向かい合うように対峙する。昂奮で胸が高鳴るのを抑えられない。勿論ルーヴルとナショナル・ギャラリー、それぞれの美術館で常設展示されてはいるが、こうして同室に並ぶ機会は極めて稀(恐らく史上初)、さながら仏英対決である。で、結果はどうだったか。
(まだ書きかけ)