今日は愈々不動産屋に別室の鍵を引き渡す日だ。十年も借りてゐた空間だから愛着も一入なのだが致し方あるまい。背に腹は代へられないのだ。
約束の刻にはあと少し。それ迄の僅かな間、せめて馴染の音樂で心和ませやう。
メンデルスゾーン:
絃樂八重奏曲 變ホ長調 作品20
ニルス・ゲーゼ:
絃樂八重奏曲 ヘ長調 作品17
ラルキブデッリ L'Archibudelli
スミスソニアン・チェンバー・プレイヤーズ
1992年1月26~28日、紐育、亞米利加文藝翰林院
Sony Vivarte SK 48 307 (1992)
四重奏はクァルテット、五重奏はクィンテット、六重奏はセクステットと云ふ。羅甸語の數字の4、5、6 卽ち quattuor, quinque, sextus にそれぞれ由來する語。子供の時分はそんな智慧はないからさう云ふものかと唯もう覺へる許りだつた。さてその先は滅多に耳にする機會がないが、辞典を引くとかう出てゐた。
七重奏=セプテット Septet
八重奏=オクテット Octet
九重奏=ノネット Nonet
十重奏=デゼット Dezet (以上すべて英語名)
子供心にもこれは月の呼び名 September, October, November, December ときつと何か関聯があるに違ひないと踏んだ。實際その通りなのであるが、それにしては些か變である。「九月」「十月」「十一月」「十二月」と數が二つずつずれてしまつてゐるのは一體全體どういふ事情からなのか。
暫くして何の本だつたか忘れたが、こんな説明を讀んだ。そもそも上に舉げた月名は古代羅馬で元來「七月」「八月」「九月」「十月」を表す呼稱だつたのだが、ユリウス・カエサルが改暦時に自分の誕生月を Julius と定め、追つてアウグストゥス帝が同じく Augustus を制定した爲、新たに割り込んだ二箇月分ずれが生じてしまひ今日に至つたのだといふ。成程さうであつたか。
爾來さう信じ切つて斯樣に吹聽したりしたのだが、この説が眞つ赤な僞りである事をたつた今知つた處である。ウィキペディアの「ローマ暦」の條に據れば元々古代羅馬のヌマ暦では一年は十二箇月から成り、新年は(現行の)三月だつたといふ。そこから年が始まり神々の名を戴く月(Martius, Aprilis 等)が竝んだあと、五番目の Quintilis(現七月)以下、Sextilis(現八月)、September…と續いてゐた。
ところが紀元前153年に大幅な改暦があつて新年が二箇月早まつて現在のやうに Januarius から一年が始まる事になつた處から、月の呼稱と數詞との間で齟齬が生じたのだといふ。カエサルやアウグストゥスが自分の誕生月の名を變へさせたのは事實だが、その爲にずれが發生した譯ではなかつたのある。
知らなかつたなあ。いやはや無知蒙昧とは事程左樣に恥ずかしいものだ。
閑話休題。メンデルスゾーンの八重奏曲の話に轉じねばならぬ。
凡そ古今のオクテット中この曲ほど欣喜雀躍たる音樂はないだらう。始まつた途端その潑剌と若やいだ活氣と馥郁たる浪漫の馨りに包まれ誰しも幸福な心持になつてしまふ。それもその筈、これはメンデルスゾーン十六歳(!)の若書きなのである。
CDの堆い山から發掘されたこのディスクを大切にしやう。これは格別な演奏だ。
高名な古樂チェロ奏者
アンネル・ビルスマが妻や盟友たちと結成した古樂器アンサンブル「ラルキブデッリ」のメンバー數名が亞米利加の若手奏者たちと臨時の絃樂八重奏團を組んで紐育で録音したものだ。用ゐられた樂器はすべて1700年前後に作られたストラディヷリウス。大半は華盛頓のスミスソニアン博物館から特別に貸與されたものだといふ。
1992年1月の下旬といふ録音日に「ほゝう」と感じ入る。
ビルスマは同じこの月にスミスソニアン博物館から借りたストラディヷリウスでバッハの無伴奏組曲の全曲再録音といふ大仕事と取り組んだばかりであり、この八重奏アンサンブルでも同じ天下の名器「セルヴェ」を彈いてゐる。その所爲もあらうか、本録音にはなんとも好もしい開放感や爽快感が漲つてゐるやうに思はれる。
メンデルスゾーンはまるで食指が延びない作曲家の一人なのだが、この曲は例外中の例外である。高校生の頃に聽いて一遍に魅了された。
(まだ聽きかけ)