日付が変わってしまったのでもう昨日になるが、颱風一過の一日を別室に籠って整理整頓に明け暮れる。
本と書棚、LPとCDは疾うに姿を消したので、あとに残った紙束を要・不要に振り分けるのが今日の作業。後生大事に永らく取っておいた映画・芝居・演奏会・展覧会のチラシ、新聞・雑誌の切り抜き、葉書と書状、展覧会カタログの校正刷や刷り出し(編集者兼学芸員だった身ゆえ)etc... なんとも種々雑多な内容だ。
あらかた紙屑として処分してしまうが、ヒッチコック、トリュフォー、グレン・グールドの死亡記事や、恩師・知友からの年賀状、自著の校正刷など、捨てるに忍びないものは手許に残す。その仕分け作業に手間取りつつ終日を埃に塗れて過ごした。
寝る前にまたもバッハ+α を聴く。今宵の「α」は
アルテュール・オネゲル。
"Dialogue: Bach─Honegger"
バッハ:
六声のリチェルカーレ ~「音楽の捧げ物」
オネゲル:
弦楽十重奏のための「讃歌」
弦楽のためのラルゴ
バッハ:
コントラプンクト1
コントラプンクト4
コントラプンクト12a
コントラプンクト9
三主題によるフーガ(未完) ~「フーガの技法」
オネゲル:
バッハの名による前奏曲、アリオーゾとフゲッタ (アルテュール・オエレ編)
交響曲 第二番
アヒム・フィードラー指揮
ルツェルン祝祭弦楽合奏団
2002年7月5~7日、ハム(スイス)、ロルツェンザール
Oehms OC 301 (2003)
オネゲルが早くからバッハに私淑し傾倒していたのは周知の事実。彼の音楽の根底にはバロックの複音楽への憧れが息づいており、描写的な交響詩に分類されがちな出世作「パシフィック231」でもその骨格をなすのは重厚な和声と精妙な対位法的な展開である。純音楽的な構成への志向は明らかにドイツ古典派の伝統に棹差し、真摯で内省的な性格はおよそ他の「六人組」とは相容れないものだ。
彼こそはスイスが生んだ20世紀のバッハなのだ。数多く残したオラトリオ的声楽曲はその証だろうし、交響的作品にもバッハの刻印は紛れもない。彼には先人に敬意を表した「バッハの名による前奏曲、アリオーゾとフゲッタ」なるピアノ曲まである。
オネゲルのこうしたバッハ志向は遍く知られているにもかかわらず、両者の楽曲を一枚のディスクに併置する試みは何故か殆どなされてこなかった。本アルバムはその盲点を巧みに突いた快挙ともいえよう。題して「バッハとオネゲルの対話」。実に秀逸なコンセプトというほかない。
選曲がたいそういい。その一点だけでも本アルバムには存在価値がある。
世にも名高い「音楽の捧げ物」の冒頭曲がまず提示されたあと、いきなりオネゲルの若書きへ、そして中期の小品へ(いずれも滅多に聴けない曲だ)と転じることで、オネゲルのバッハ主義の根深さ、真率さをまず聴き手に実感させる。
再びバッハに転じて遺作「フーガの技法」から聴かせどころを抜粋。五曲目の「三主題によるフーガ」で三つ目の主題(BACH すなわち変ロ・イ・ハ・ロの主題)が展開しかけたところでバッハの筆は途絶え(失明によると伝えられる)、間髪を入れずに同じBACH主題に基づくオネゲルの「バッハの名による前奏曲、アリオーゾとフゲッタ」(弦楽合奏版)が始まるという趣向はなんとも秀抜。あざとい程に効果的でもある。ニ百年の時を隔ててオネゲルがその続きを書き継ぎ…と云わんばかりだ。
そして締め括りに第二交響曲。これこそ陰鬱で困難な時代の只中にあってオネゲルが複音楽的な手法のすべてを駆使して構築した「真にバッハ的な交響曲」なのだ、というのが本ディスクの結論なのであろう。それに異論を唱える余地のない程に見事に構築されたアルバムである。
演奏は誠実だが聊か閃きを欠き、生真面目な凡庸の域を出ない(特に交響曲)。偏にコンセプトの卓越ぶりが光る。でもそれで充分ではないか。