手持ちの書籍の過半数を処分した。刊行年度がここ半世紀以内で容易に図書館で請求できる書物・雑誌類や、然るべきライブラリーで閲覧可能な展覧会カタログは、原則として手放すこととした。手許に残るのは古い稀少な書目と洋書、残りの人生で役立てられそうな研究資料のみ。その余は売却である。苦しい決断だが詮方ない。昨日トラックが来て数千冊を運び去った。
だが何事にも例外はつきものだ。次の一冊などは刊行から四十年未満なので売却せねばならぬ筈だが辛うじて手許に留まった。偏に永年の愛着の故である。
松田政男
白昼夢を撃て
田畑書店
1972
その尖鋭な革命思想には到底ついていけないが、この人の映画を見る眼の確かさにはいつも敬意を払っている。本書は『薔薇と無名者』に続く
松田政男の二冊目の映画論集──ご本人は「映画に関する雑文集」と謙遜するが──であり、1970年から72年上半期までに書かれた文章を網羅している。
試みに俎上に載った作品から書き抜いてみよう。どんな時代かが彷彿とする。
1970年/
ジョージ・ロイ・ヒル監督 《明日に向かって撃て》
アンリ・ベルヌイユ監督 《シシリアン》
澤田幸弘監督 《斬り込み》
ロジャー・コーマン監督 《ワイルド・エンジェル》
福田純監督 《野獣都市》
マイケル・ウィナー監督 《栄光への賭け》
マーティン・リット監督 《男の闘い》
グラウベル・ローシャ監督 《アントニオ・ダス・モルテス》
小川紳介監督 《三里塚 第二次強制測量阻止斗争》
1971年/
ルイス・ブニュエル監督 《悲しみのトリスターナ》
小澤啓一監督 《関東流れ者》
マウロ・ボロニーニ監督 《わが青春のフロレンス》
ボブ・ラファエルソン監督 《ファイブ・イージー・ピーセス》
寺山修司監督 《書を捨てよ町へ出よう》
ワリス・フセイン監督 《小さな恋のメロディ》
中平康監督 《闇の中の魑魅魍魎》
マイク・ニコルズ監督 《キャッチ22》
ロバート・アルドリッチ監督 《傷だらけの挽歌》
ロバート・アルトマン監督 《バード・シット》
吉田喜重監督 《告白的女優論》
若松孝二監督 《秘花》
1972年/
三隅研次監督 《子連れ狼》
西村潔監督 《ヘアピン・サーカス》
舛田利雄監督 《剣と花》
ジャック・ドレー監督 《もういちど愛して》
シドニー・ポワチエ監督 《ブラック・ライダー》
・・・
どうですか、これが面白い時代だったことは疑いない。小生の個人史でいうなら高校三年から大学二年の夏までに該当する。
小生がこの本を手放せないのは「
廃馬を射つニヒリズム」と題した一文の故だ。
三年前の秋、映画を見ては小さな文章を書き綴るという職業に入りかけていた私に、シドニー・ポラックの名を教え、『雨のニューオリンズ』を勧めてくれたのは、佐藤静子さんだった。しかし、どういうわけか『インディアン狩り』『大反撃』とシドニー・ポラックに見参する機会がなく、実は、この『ひとりぼっちの青春』で初めてその緻密なドラマトゥルギーに相まみえることとなったのである。[…]
『ひとりぼっちの青春』は、佐藤静子さんの名文句を借用するならば、一言でいって、さあ踊れ、ここがアメリカ合衆国だ、という映画である。しかし私は、佐藤静子さんとは正反対に、そこにシドニー・ポラック監督の〈悲しい勇気〉ではなく、したたかに手応えのあるニヒリズムを見出さないわけには行かなかった。ストーリーは、まあ、簡単である。一九三二年、ルーズベルト登場直前の合衆国、あのボニーとクライドが無惨にも射殺されたのとほぼ同時代、ハリウッドのコロシアムのマラソン・ダンス大会、必死になって千五百ドルの賞金を狙う男女一組の人びと、それぞれが或る過去と或る野心をもって繰り広げる人間模様──。人生をマラソンにたとえるのは、トニー・リチャードソンの往時に溯らずとも、最近でも、マイケル・ウィナーの『栄光への賭け』の例があるが、シドニー・ポラックは、なんと、マラソンをば〈密室〉のなかに封じ込めてしまうのだ。この逆説的な空間処理において、この映画はまずニヒリスティックである。
しかし、それにもまして、時間の処理はよりニヒルなのである。偶然の機会からハリウッドに流れてきたロバート(マイケル・サラザン)は、グロリア(ジェーン・フォンダ)のパートナーとして、このマラソン大会に参加する。タイトル・バックに流れるロバートの幼時の記憶をカッコに括ると、ドラマはまさにここから始まり、終始、現在進行形で語られているかのようだ。時折、フラッシュ・バックとして、ロバートの暗い追憶(!)が画面を断ち切る。護送車、独房、法廷──ロバートが背負わされているのであろう、或る何ものかが暗示される。ところが、私たちは、シドニー・ポラックにまんまと一杯くらわされるのだ。実は、このフラッシュ・バックのほうが現在で、ほぼ全篇を占めるマラソン・ダンスの細部描写のほうが、過去なのである。私は、ラストシーンにいたって、シドニー・ポラックのニヒリズムが痛いほど突き刺さってくるのを覚え、涙が溢れてくるのを押えることができなかったと告白しておこう。
松田さんの切れ味鋭い名文のあとに書き写すのは気が引けるのだが、五年前に綴った拙文「
馬だったら撃つでしょう」からも少し引こう。
《ひとりぼっちの青春》(シドニー・ポラック監督、1969)という忘れがたい映画がある。大学一年のとき(1971年)、高田馬場パール座(東京にいくつもあった名画座のひとつ)にイザドラ・ダンカンの伝記映画を観に行って、二本立ての片割れとして偶然めぐりあった。アメリカン・ニューシネマの知られざる傑作である。
大恐慌直後の1932年、ハリウッドにほど近い西海岸には、仕事にあぶれた老若男女が数知れずたむろしていた。これに目をつけた興行主が途方もないショーを企てる。はぐれ者の男女にカップルを組ませ、マラソンダンスを競わせる。文字どおり不眠不休で、夜となく昼となく、ひたすら踊り続けさせるのだ。一週間、十日、一か月…。疲労困憊し、精も根も尽き果てた参加者は、くず折れるようにつぎつぎ脱落していく。
行きずりの主人公たち(ロバートとグロリア)はたまたまここで出会ってカップルを組み、過酷な状況のなかで互いに励ましあい、惹かれあっていく。だが、この興行のカラクリ(実は勝利者に賞金が出ない)を知るに及んで、二人は悄然と会場を後にする。すべての望みを失ったグロリアはバッグから短銃を取り出し、自らを撃とうとするが、どうしても引金が引けない。傍らのロバートは懇願されるまま、彼女の頭に銃口を向ける…。
駆けつけた警官が呆れ顔で詰問する。「お節介者め、なんでこんなことをしでかしたんだ」。するとロバートはこう呟くのだ。
「馬だったら撃つでしょう? They shoot horses, don't they?」。
どうにも救いのない結末である。にもかかわらず、18歳の小生はすっかりこの映画の虜になった。人生とはそもそもマラソンダンスなのではないか。傷ついた馬は苦しませず、撃ち殺してやるがよい…。
グロリアを演じたのはジェーン・フォンダ。《バーバレラ》とはまるで別人のよう。人生に闘い疲れた女を完璧に演じきり、永くわが最愛の女優となる。
松田さんの批評はまだ続く。更に言葉を連ねてこの映画の主題へと肉薄する。
ロバートが全力を出し切ったあの戦いのヒロインはグロリアである。この映画を見るひとは、おそらくグロリアの〈悲しい勇気〉に心を搏たれつづけることだろう。しかし、グロリアのように死ぬことも挫折ならば、ロバートのように生きることもまた挫折なのだ。彼らは、共に、廃馬である。そして、廃馬のように射たれ、また廃馬のように射つニヒリズムこそが、私たちの青春である。ロバートとグロリア、ボニーとクライドら、無数の廃馬たちの上に、やがてルーズベルトが登場してニューディールの三〇年代が出口なきニヒリズムを戦争に組織し、アメリカ資本主義は地球の半ば以上を制覇する。その時、暗い独房のなかで、ロバートは、決して未来を現在として生きずに、過去を現在とし、現在を過去とすることによってのみ、時代と相渉るのである。
廃馬のように射たれ、また廃馬のように射つニヒリズムこそが、私たちの青春である──この語気強い断定に抗うことなぞできはしない。私たちは誰もが皆、廃馬なのだ、と深く頷いたとき、松田政男の映画論集はわがバイブルとなった。聖書を売り払うのは許されざる冒瀆行為である。
蛇足を承知で付け加えるなら、書名「
白昼夢を撃て」は「フィルムを撃て」と訓ずる。なんと格好いいタイトルだろう。そう、映画は白昼夢なのだ。