1980年代末頃、不意に映画界を去ってから杳として行方が知れず、死亡説すら囁かれてきた
曽根中生監督が二十数年ぶりに姿を現した。大分の由布院映画祭にゲストとして登場したのだという。「シネマトゥデイ映画ニュース」から引く。
26日、大分県で開催中の第36回湯布院映画祭で、死亡説や行方不明説が飛び交っていた伝説の映画監督・曽根中生がおよそ20数年ぶりに公の場に姿を現し、謎のベールに包まれていた空白の期間を激白した。
曽根監督といえば、『天使のはらわた 赤い教室』『新宿乱れ街 いくまで待って』『嗚呼!! 花の応援団』『博多っ子純情』など1970年代、80年代の日本映画界で数々の傑作を生み出してきた伝説の映画監督。しかし、多額の負債を抱えた80年代後半にプッツリと消息を絶ってしまって以来、映画業界でその行方を知るものはいなかった。そんな曽根監督が20数年ぶりに公の場に登場、報道陣の前で会見を行うことになった。
映画関係者の間でも「借金が返せずにヤクザに殺された」「北九州で敵対するヤクザ組織の親分になった」「ダンプ(タクシー説もあり)の運転手をやっていた」など、まことしやかなうわさが次々と飛び交い、いわば都市伝説化。その辺の真相を直撃してみると「東京にいたころ、借金でよくヤクザに呼び出されていた。その様子を見ていた人がそういううわさを流したのかもしれないですね」と返答。さらに運転手説も「だいたい僕は運転が下手くそですから」と一笑に付していた。
曽根監督はなぜ映画界と距離を置いたのか。「ちょうど(自身が手掛けた制作会社)フィルムワーカーズを倒産させた後で、借金があった。そんなときに競艇の映画(現時点で曽根監督最後の映画となる『フライング 飛翔』)にお金を出してくれるところがあって、それにすがった。そしたら本職の競艇選手に『あなた競艇を知らないでしょう』とこっぴどくやられた。実際、出来た映画もひどかったし、これ以上映画を撮ることは罪悪だと思うようになった。それと西村隆平というプロデューサーが若くして亡くなったことも大きかった。片腕を亡くしたような気持ちになって。そんなこともあって、とにかく映画に捨てられたという意識が強くなり、映画から離れなければならないと思った」と明かす。
なるほど、そういう映画への絶望感が背景にあったのか…。
それからの曽根監督は多額の負債を抱えながらの都落ち。流れ着いた九州で鮃の養殖(!)に携わり、電子工学を学んで燃焼にまつわる研究開発(!)に取り組んできたのだとか。いずれにせよ映画とは全く無縁な世界で生きてきた。居を構えたのが同じ大分県の臼杵市という偶然も手伝って、この映画祭に顔を出したのだそうだ。
そんなときに、この湯布院映画祭で『博多っ子純情』を上映すると知ってしまい、いても立ってもいられずに、曽根監督自ら、映画祭事務局に連絡をとったのだという。その流れでつい最近、『(秘)女郎市場』『嗚呼!! 花の応援団』などで組んだ脚本家の田中陽造と再会。「(この空白の期間に)会えなくなった人間がたくさんいる。生きていて良かったなと思った」としみじみ語る。
数奇な人生を送ってきた曽根監督も御年73歳。このような元気な姿を見せられたら、新作を期待する向きもあるだろうが、「まあ、時間が合えば来るものは拒まずですが……。ただ、まだまだわたしの研究を待っている人がいますし、普段は洗濯や食事の準備など主夫業で結構忙しいんですよ」と煙にまかれてしまった。
何はともあれ、生きていてくれて本当によかった。もう新作は無理だろうが。
不思議にも曽根中生を林美雄さんが話題にしていた記憶がない。これはどうしたことか。同じ日活の藤田敏八や澤田幸弘や田中登の作品ならば口を極めて絶賛していたのとは対照的だ。小生が曽根作品に導かれたのは偏に蓮實重彦の感化による。《わたしのSEX白書
絶頂度》(1976)を褒めちぎった批評を目にして「これは一刻も早く観なければ」と焦れた。当時(70年代末から80年代にかけて)蓮實助教授の眼力と修辞力はかくも絶大だったのである。
それから三十年ほど経った昨年《絶頂度》を再見する機会を得た(その折のレヴューは
→ここ)。正直なところビクビクものだった(つまらなかったらどうしよう…)のだが、嬉しいことに紛れもない秀作であった。緻密な演出力に痺れた。
そのときの連続上映のタイトル「消えゆく曽根中生!?」に違和感を覚えた。上映フィルムが廃棄され曽根作品が観られなくなる、という警鐘を鳴らす標題だというのだが、「疾うに映画界から消え去った曽根中生なのに、消えゆくなんて今更だなあ」という思いが過ぎったのだ。ともあれご本人の消息がわかったのは嬉しい。
五十本近い曽根監督のフィルモグラフィのうちスクリーンで実見できたのは半分以下。不案内な小生なので偉そうなことは書けないのだが、出来不出来というか、好不調の波の大きい監督だという印象が強い。力の籠った演出のあとに、まるきり気の抜けた自堕落な凡作が平気で続く。
だが以下の数本は紛れもない傑作だったように思う。機会があれば再見したい。
不良少女 野良猫の性春 (1973)
わたしのSEX白書 絶頂度 (1976)
新宿乱れ街 いくまで待って (1977)
博多っ子純情 (1978)
天使のはらわた 赤い教室 (1979)
湯布院での《
博多っ子純情》上映を監督はどんな感慨を抱いて観たのだろうか。小生の遠い記憶に拠れば鈴木清順の《けんかえれじい》の衣鉢を継ぐ、目の醒めるような思春期映画の大傑作だったのだが。