ベン・シャーンは1960年、たった一回だけ来日している。ただし確たる目的をもたぬ私的な旅だったため、その足取りは詳細にはわからないらしい。東京では帝国ホテル、京都では俵屋という日本旅館に逗留していたという。
当時すでに押しも押されもしない大家だったから、憧れて逢いに行ったという日本人も少なからずいた筈だが、もう半世紀以上も前のこと故、そのときの想い出をいきいきと語れるのは今や
和田誠さんだけになってしまった由。
今日たまたま上京することになったので、その往還の供に和田誠さんの青春回想『
銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋、1993)を持参した。この本のどこかに確かベン・シャーンと逢った話が出ていたと記憶するからである。久し振りに頁を繰ると、おお、あるではないか。ちゃんと「ベン・シャーンそして…」と題された章が。
たまたま友人の粟津潔から「ベン・シャーンが日本に来てる。会いに行かないか」と誘われた和田さんは、ふたりして自作を携えて、はるばる京都の宿を訪ねたのだという。約束なしにいきなり行ってしまったらしい。若かったのだ。
ちょっと長くなるが、その一節を引かせていただく。ベン・シャーンの人となりがよく出ていると思うからだ。
ぼくたちは自己紹介し、あなたの作品が大好きであることを言い、イラストレーターであることと作品を持ってきたことを述べた。シャーンさんは終始ニコニコ話を聞いてくれ、では作品を見せてくださいと言った。まず粟津さんから作品を見せる。主に芝居のポスターだった。画家はしきりに感心をし、「これを貰っていいですか」と言う。[…] 次はぼくの番。いろいろなポスターを拡げる。ドキドキ。粟津さんの作品ではあんなに「貰っていいか」と言ったのに、ぼくの作品にはまったく言ってくれない。次々に見せるが黙っている。田中一光さんのデザインによる劇団民芸の「どん底」のポスターを拡げたとき、やっと「何のポスター?」ときいてくれた。でも「どん底」の英語がわからない。ただ「ロシアの芝居です」と答えた。奥さんがベン・シャーンの耳もとで何か言う。奥さんは勘で「どん底」を当てたのだろう。[…] そしてそのポスターを「貰っていいか」とシャーンさんは言ってくれた。
作品を全部見せ終わると、シャーンさんは真顔でぼくを見、「東京から訪ねて来たのに傷つけるようなことになっては悪いが、ひと言アドヴァイスをしてもいいですか」と言う。「もちろんです」とぼく。そのときシャーンさんは「個性」という単語を何度も言った。「個性。個性。われわれが求め続けるのは個性です。それなのに君はいろいろな描き方をする。それではいけない。自分のものを見つけなければ」と。
確かに粟津さんの作品群は当時の粟津カラーで統一されていた。ぼくはといえば、電電公社のポスターは漫画ふう、芝居のポスターは筆太に描き、別の仕事はペン画、というふうだった。クライアントによって描き分けようというサービス精神でそんなふうにやっていたこともあるし、自分もいろいろな手法を使うのが楽しかったのである。ぼくは「真面目な仕事もしたいし、ユーモラスなものも描きたいんです」と、ささやかに反論をした。シャーンさんは「それはよくわかるが」と言い、「どん底」のポスターを指して、「こういう手法の中でユーモアを出すことができるんじゃないかな」と続け、ぼくが言葉につまって黙っていると「同意するかい[アグリー]?」と優しい目で言った。ぼくは「はい」と答えた。
そのあとシャーンさんは「ニュージャージイ(彼のアトリエがあった)に遊びにおいで。ニューヨークから近いが庭には山羊も豚も鶏もいるよ」と言ってくれた。ぼくたちは「行きます」と答えたが、ついに実現はしなかった。ぼくたちが帰るとき、シャーンさんは旅館の玄関まで出てきて、靴をはくわれわれの後ろから「グッドラック」と声をかけてくれた。
なんて素敵な話だろう。見も知らぬ異国の若者に正面から向き合い、親身になってアドヴァイスし、苦言すら厭わない。ベン・シャーンの誠実な人柄がひしひしと伝わってくるエピソードである。何度読んでも感動する。
和田さんはこの一節を次のように、ちょっとユーモラスに締め括っている。
いい思い出である。尊敬する画家からのアドヴァイスも貴重なものだ。けれども今にいたるまで、スタイルをやたらに変えるなという忠告を、ぼくは守っていない。矛盾するようだが、ベン・シャーンを尊敬する気持も変わっていない。