昨日に引き續いて手許に殘る文庫本から。今日は戰前からあつた
座右寶刊行會と云ふ出版社が戰後間もなく出した文庫版をいくつか。
「座右寶」と書いて「ざうほう」と訓ずる。これは大正末年に作家の志賀直哉が私財を投じて刊行した豪華版の古美術冩眞集『座右寶』に端を發する名稱ださうで、その際に名乘つた版元が白樺派の周邊に居た後藤眞太郎なる人物に引き繼がれてずつと戰後まで連綿と存續したらしい。
今日「座右宝刊行会」の名は寧ろ美術專門の編輯プロダクションとして銘記される。小生なぞは初めて揃へた河出書房の廉価版美術全集「世界の美術」(1964~66)以來の馴染深い名である。1960~70年代の美術全集ブームの蔭の立役者と云へるが、1981年に倒産した由。小生が美術出版業界に身を置いたのはその直後だつたから、周囲にはその殘党の編輯者たちがまだ何人もゐたと記憶する。
さてこの座右寶刊行會が戰後間もない混乱期に「座右寶叢書」と題する美術關係の文庫を出してゐた事實は案外知られてゐない(因みにこの「座右寶叢書」なる呼稱は廣告に記されるのみで表紙・扉・奥付の何處にもない)。小生にしてもこのシリーズに關する知見は乏しく、どの位の種類が出たのかも詳らかにしない。架藏するのは僅かに三册のみである。
小山冨士夫
正倉院三彩
座右寶叢書
座右寶刊行會
1947年11月
前川誠郎
デューラアと伊太利旅行
座右寶叢書
座右寶刊行會
1947年12月
徳川義恭
宗達の水墨畫
座右寶叢書
座右寶刊行會
1948年8月巻末廣告に據ればほかにホウブラーケン著・嘉門安雄譯『リューベンス』、フロマンタン著・三輪福松譯『レンブラント』、町田甲一『天平彫刻の典型』が出てゐる由。
徳川義恭(よしやす)の著作が目を惹く。名にし負ふ尾張徳川家の御曹司。日本美術史を志す文學青年で三島由紀夫の親友でもあつたが二十八の若さで夭折した。上の文庫の刊行から僅か一年半後である。
陶磁器硏究家で東京帝室博物館員だつた小山を除いて著譯者は悉く東京帝國大學の美學美術史學科の卒業生である處から推して、人選には白樺派出身の兒島喜久雄教授の推輓があつたと察しられる。戰時中から碌に仕事に有りつけなかつた西洋美術史專攻の若者たちにとつては願つてもない執筆の機會だつた筈だ。
とりわけ目覺ましいのは弱冠二十七歳の新進氣鋭
前川誠郎のデューラー論。先輩格の三輪福松(兒島喜久雄の女婿)や嘉門安雄(硏究助手だつた)が古典的著作の飜譯でお茶を濁したのに對し、薄册ながら堂々オリヂナルの論考を書き下ろしてゐる。その意氣や良し。しかも六十年以上經つた今でも味讀に價する名文なのだ。冒頭の「序」から少し引くと、
ゲーテを伊太利へ誘つたものは其の地の天候と美術だつたが、其の當時伊太利の美術は疾くにその最盛期を通過し、ゲーテはたゞ過去の遺品をみて歩くだけであつた。その點現代伊太利を訪れる我々と些かも變りはない。けれどもデューラアがアルプを南に越えた時は事情がすつかり違つてゐた。彼はヴェニスにしか行かなかつたのだが、それでも刻々に素晴らしい美術品が造られ其の他精神文化萬端に亙つてそれが最大の活動をしてゐる雰囲氣は充分に體感出來たのであつた。繪畫の方に就いてだけ述べても一般に未だ未だ後期ゴシックの域を出でず、ちゞれた樣な線で瘦せ細つた人體を描いてゐた當時の獨逸人にとつて伊太利繪畫は正しく驚異すべきものであつたに違ひない。それはゲーテの感じた驚異よりももつともつと生[なま]なましいものであつた、何しろそれを學ばうと思へば有能な師匠が幾らでもあつたのだから。丁度東洋人である我々が現在泰西の文化に對してどうしても胸のときめきを禁じ得ないのに似通つたものがある。十五世紀の終りにはニュルンベルクにもジャコポ・デ・バルバリと言ふ伊太利人がやつて來て伊太利畫風を傳へたりしたのだが、それだけでは飽き足りず二度もはるばると山の彼方[ウルトラモンダーネ]へ出掛けて行つた若いデューラアの気持は今の私に能く分る樣な氣がするのである。實に格調の高い語り口である。無駄な修辞を排し論旨も頗る明晰、森鷗外の散文のやうだと云つたら過褒だらうか。デューラーのイタリア修業行を三世紀後のゲーテのイタリア紀行と比較して、その歴史的意義をくつきり浮彫にし、歐羅巴に於ける南北問題へとさり氣なく讀者の注意を促す。しかもこの段階ではルネサンスという語を用心深く避けて話を進めてゐる。
デューラーを思慕する餘り、著者は往時の畫家と自分自身と、時空を隔てる二つの青春を密かに重ね合はせて、その心情を忖度し、恰も我が事であるかのやうに想ひ描いてゐるのが何とも微笑ましい。
云ひ忘れてゐたが、座右寶叢書はその装丁が凝ってゐる(
→これ)。レオナルド・ダ・ヰンチの考案した組紐模樣を思はせる美しい圍み装飾はひよつとして兒島喜久雄その人の手になるものではないか。