長命なうえに多作家だった
アレクサンデル・タンスマンの軌跡をディスクから知るのは難しい。LP時代には永らく等閑視されていたし、ここ十年ほどは漸く復活の兆しがあるとはいえ、まだまだ全貌を捉えるには程遠いのである。そこで先ずは弦楽四重奏のみに限って彼の営みを追うとしよう。
"Alexandre Tansman: Complete Music for String Quartet"
タンスマン:
弦楽四重奏曲 第二番 (1922)
弦楽四重奏曲 第三番 (1925)
弦楽四重奏曲 第四番 (1935)
弦楽四重奏曲 第五番 (1940)
トリプティック (1930)
弦楽四重奏曲 第六番 (1944)
弦楽四重奏曲 第七番 (1947)
弦楽四重奏曲 第八番 (1956)
シレジア弦楽四重奏団
1991年5月、12月、ブィドゴシュチュ(ポーランド)
Etcetera KTC 2017 (1992)
タンスマンは生涯で八曲の弦楽四重奏曲を書いている。ワルシャワ時代の若書きの第一番(1917)は逸失してしまったので、このディスクには第二から第八までの七曲と、この編成のための「トリプティック」を収めて遺漏なきを期している。
最晩年を除くタンスマンのほぼ全キャリアを覆うこれら八作品を通して聴くのが、彼をてっとり早く知るのに有効だろう。早わかりのタンスマン。
1919年にパリに出てほどなくタンスマンは憧れのラヴェルの知己を得て、その後ろ盾によりパリ楽壇で頭角を現す。大先輩の影響は20年代にパリで書かれた二曲の弦楽四重奏曲に歴然としていよう。予備知識なしにこれらを耳にしても、これらがラヴェルの追随者(それもかなり優秀なエピゴーネン)の手になることは察しがつく。作曲家の出自は民族舞曲風の旋律に見え隠れするものの、いかにもパリらしい瀟洒なウィットと繊細な抒情が横溢して、民族色は殆ど看取できない。この巴里の波蘭人は生粋のパリジャン以上にパリ訛りで喋るのだ。
1935年の第四番ではルーセルばりの複調と角張ったリズムが乾いた情緒を醸し、新古典主義の隆盛を告げる。タンスマンはまこと時代の子なのである。
ユダヤ系の彼は1941年にアメリカへ亡命、戦時中はハリウッドで映画音楽(デュヴィヴィエの《肉体と幻想》ほか)を書いて糊口を凌ぐ。1940年の第五番は渡米直前の作。著しく内省的な独白や、炸裂するアタッカ、不安げに錯綜するフーガは、当時のタンスマンの置かれた厳しい状況を率直に反映しているように思われる。不思議なことに、同じく戦時下で書かれた1944年の第六番には深刻さは影を潜め、むしろ生き生き躍動する。カリフォルニアの空気がそうさせたのか。
1946年パリに戻ってからのタンスマンは相変わらず旺盛な作曲活動を続ける。しかしながら時代は急速に前衛へと舵を切り、彼はもはや主流とはかけ離れた過去の人と看做されつつあった。第七、第八はそのような時代にひっそりと書かれた。とはいえ、どちらも対位法を駆使した書法は練達を極め、弦楽四重奏の醍醐味を味わうに不足のない佳作である。埋もれさせていまうには勿体ない作品であろう。
収録された八作品すべてが世界初録音。逆に云えばタンスマンはそれだけ不当にも忘却の淵に沈んでいたということだろう。