とうとう二日遅れになってしまった。忸怩たる思いもないではないが、それでもまるきり気づかないよりはマシであろう、せめて取って置きのディスクをかけて遅れ馳せの百年祭を祝おうではないか。
"Pierre Monteux in Boston:
A Treasury of Concert Performances 1951-1958"
ストラヴィンスキー:
バレエ音楽『ペトルーシュカ』
ピエール・モントゥー指揮
ボストン交響楽団
ピアノ/バーナード・ジゲラ
1958年1月3日、ボストン、シンフォニー・ホール(実況)
West Hill Radio Archives WHRA-6022 (2008)
1911年6月13日、パリのシャトレ座。
リチャード・バックルの麗筆(と鈴木晶さんの名訳)の力を借りて、タイムマシンさながら百年の時を遡ろう。
幕が開くと、四旬節前の市の、見世物小屋の間を群衆が行き交っている。酒をちびちび飲みながら歩いている馬丁や馭者、貴族のカップル、将校に敬礼する士官候補生、茶やプレッツェルを売る行商人、ハーモニカを吹いたり、老人をからかう子どもたち、ヒマワリの種を歯でつぶしながら歩いている娘たち。手回しオルガンやコルネットによるおなじみの音楽に合わせて、大道芸人が踊りを競う。そして、魔法使いが三つの人形を見せる。人形たちは愛と嫉妬をパントマイムで演じる。次はペトルーシュカの部屋。彼は孤独と絶望に苛まれる。その次は椰子の木が置いてある、赤い色調の、豪華な南国調風のアパルトマンで、ペトルーシュカのライバルであるムーア人がバレリーナといちゃついている。そこへペトルーシュカがとびこんでくるが、ムーア人に叩き出される。最後の場面は、夕闇迫る、最初と同じ広場。伝統的なきらびやかな服を着た子守女たちが踊り、芸人が熊を連れてきたり、酔った商人がジプシー娘を二人連れてきたりし、長靴をはいた二人の馭者が、しゃがんで足を蹴りだすロシア的な踊りを披露する。カーニヴァルに浮かれ興じる人びとの行列が過ぎると、雪が降ってくる。突然、見世物小屋から人形たちがとびだしてきて、舞台を駆け回る、ムーア人がペトルーシュカを切り殺し、バレリーナが両手で耳をおおう。群衆が人形を取り巻き、その間に人形がニジンスキーとすりかわる。マントを着た魔法使いが、ぐったりしたおがくず人形を引きずって行き、安心した客たちが去って、舞台が空になると、ペトルーシュカの亡霊であるニジンスキーが、緑色のライトを浴びて、見世物小屋の上に姿をあらわし、永遠の命を得たことを示し、がっくり前向けに倒れ、腕をぶらぶらさせる。 ──リチャード・バックル『ディアギレフ』 鈴木晶訳、1983年
続いて初演に遅れること三年、1914年6月26日に英京ドルーリー・レイン劇場でバレエ・リュス公演の舞台に接した
大田黒元雄による臨場感たっぷりの筋書紹介を。
露都の町外れはカルナヴァルでごたごたと賑はつて居る。多くの人々は多くの見世物小屋の前に群れて居る。其の小屋の一つの中から聞へて来る音楽の音に群衆は皆其の前に押し寄せる。小屋の中には奇妙な服にシルクハットを冠つた人形使ひが居た。彼の異様な服装と態度は著るしく群衆の好奇心を誘つた。カーテンは開かれる。其所には三つの人形が台の上に載せられて居るのが見られた。人形の一つは道化のペトルーシュカ、一つは黒奴、一つは頬の赤い美しい踊り子の女である。賑やかな音楽と共に此等三つの人形は踊り始める。そして足を以てばたばたと拍子を取りながら床を踏み鳴らす。群衆の感興の漸く深く成つた時人形は台から離される。そして事の意外に驚いて居る群衆の中央に進み出て踊り続ける。そのうちにペトルーシュカと黒奴の人形とは茶番を始める。群衆の驚嘆は非常なものであつた。其の間不思議な人形使ひは其の人形が人々に驚異の眼を以て見られて居るのを、冷かに笑ひながら眺めて居た。そこで幕が下りる。
再び幕が上ると我々は奇妙な小さい部屋を見る。それはペトルーシュカの居間であつた。突然彼方の小さな戸が烈しく開かれる。そして哀れなペトルーシュカは其の主人にこゝへ蹴込まれる。彼は此の牢獄のやうな部屋から外へ逃れ出やうと種々に試みる。けれど遂にすべてが失敗に終つたので彼は甚しい失望に陥る。実をいふと彼は決して唯単に外界に憧れて居るばかりではなかつた。彼の心を最も悩ませたのは彼のかの踊り子に対する恋であつた。ところが不意に彼方の戸が開かれた。ペトルーシュカは己れの憧憬の的である踊り子の女の訪問を今思ひ掛けず受けたのである。愚かなペトルーシュカは万事を忘れて最も馬鹿気た態度で己れの想ひを述べた。けれど熱中すればする程彼は対手の軽蔑を受けてしまふ。そして遂に踊り子の女は此の部屋を去らうとする。ペトルーシュカはこれを何とかして止めやうとした。けれど彼の前には空しく戸が閉められてしまふ。
場面が代ると今度は人形の箱の他の部分で、黒奴の居間である。其の壁には大きな花の模様が強烈な色彩で描かれて居る。野蛮な黒奴はデイヴァンの上にくつろいで居た。やがて彼は椰子の実を玩具にして犬のやうに戯れる。彼は此の椰子の実を用ゐての芸当が思ふやうに出来ないので焦れて居る。其の時ペトルーシュカに愛憎を尽かしたかの踊り子の女が入つて来た。すべての媚を以て彼女は玩具の喇叭を口にあて、陽気なガロップを吹きながらそれに合はせてあちこちと歩む。ペトルーシュカと違つて恋などゝいふ事には縁の遠い黒奴は始め此の踊り子の入つて来た事に注意を払はなかつた。ところが此の喇叭の音に伴ふ彼女の運動をふと注意してから彼は著るしい興味を以て彼女を眺め始める。彼は椰子の実を傍に投げ棄てゝ此の美しい訪問者を抱擁する。女はこれを見て愈々媚びた態度を示した。こゝに於て単純な黒奴は全く彼女の虜と成る。けれど其の最中に意外にもペトルーシュカが入つて来る。ペトルーシュカは室内の有様を見て嫉妬に堪えられなかつた。而かも弱い彼は乱暴な黒奴のために室外に蹴出されてしまふ。黒奴の勝利の喜びをあらはす乱暴な踊のうちに此の場は終る。
最後の場は第一場と同じである。即ちまた見世物小屋の前に戻る。賑はしい音楽に伴つて祭の男女は皆踊つて居る。そこへ酒に酔つた商人が来て人々の間に紙幣を蒔き散らしたので混雑は愈々激しく成る。いろいろに仮装した人々の一隊がそこへあらはれて粗野な歓楽は高潮に達した。其の時最早夕は迫り、雪がちらちらと降り始める。灯はかゞやき始め祭の夕の特種な雑然として愉快な空気がすべてのものを包んだ。其の時かの人形使ひの小屋の中に何か変事が起つたやうな様子であつた。小屋のお逢えに下りて居たカーテンが急に開かれて其の一端からペトルーシュカが躍り出す。すると彼を追つて黒奴と踊り子の女が現はれる。黒奴は偃月刀を振り廻して居た。ペトルーシュカはまたカーテンの一端から小屋の中へと逃げ込む。黒奴と踊り子が彼を追つて中へ飛び込んだのは云ふ迄もない。かうして暫らくカーテンの向ふ側では烈しい争闘が行はれたらしかつた。やがてまた三つの人形はカーテンの向ふ側から躍り出る。ペトルーシュカはどうかして黒奴の刀から逃れやうとした。けれど遂に黒奴は彼に追ひ着く。そして其の偃月刀の一撃に哀れなペトルーシュカは地上に倒されてしまふ。群衆は皆此の人形の悲劇を眼前に見て唯呆然として居た。此の時巡査はかの魔法使ひのやうな人形使ひの老人と共に此の場に来た。群衆は皆好奇の眼を以て此の不思議な事件の成行を見て居た。人形使ひはペトルーシュカの屍骸を抱き起さうとする。彼の引きずり起したのは全くの人形であつた。彼は人々に此れが全くの人形であることを示す。群衆は追々に散つて行つた。彼等は其の実見した不思議な悲劇に寧ろ不快の念を覚えて祭に賑ふ他の部分へと去る。あとには人形使ひのみが唯一人残された。彼はペトルーシュカの人形を引きずりながら己れの小屋へと歩を運ぶ。其の時鋭い叫び声が彼の耳を襲ふ。彼は愕いて四辺を見廻した。叫び声は再び聞える。此れにまた愕かされた人形使ひは猶も四辺を見廻した。すると彼の眼は其の小屋の軒先きに掛つた異様なものを発見する。そして此れがかのペトルーシュカの幽霊である事を知つた時、老いた人形使ひは恐怖の余り此の場を逃げ去つてしまふ。それと共に舞踊「ペトルーシュカ」は終る。 ──大田黒元雄『露西亜舞踊』 音楽と文学社、大正六年
(まだ書きかけ)