寝床に入ってこのディスクをかけたら途端に頭が覚醒し、目がらんらんと輝きだす。ここには混じりけのない天才的な音楽性の発露がある…
"Martha Argerich Piano Recital"
ショパン: スケルツォ 第三番
ブラームス: 二つの狂詩曲
プロコフィエフ: トッカータ
ラヴェル: 水の戯れ
ショパン: 舟歌 嬰へ長調
リスト: ハンガリー狂詩曲 第六番
ピアノ/マルタ・アルヘリッチ1960年7月4~8日、ハノーファー、ベートーヴェンザール
ポリドール Deutsche Grammophon POCG-1368 (1992)
云わずと知れたアルヘリッチのデビュー・アルバム。もう半世紀以上前の録音である。芳紀十九歳にしてこの個性的な完成度はちょっと凄い。しかも(小声でこっそり囁くなら)彼女はこのときから少しも進歩しちゃあいない。こう書くと悪口みたいだけれど、この高度な達成のあとに「進歩」なぞあり得ないのではないか。そんな不躾な感想を禁じ得ないほどに驚くべき演奏なのである。
贅言を重ねるべからず。ここは吉田秀和翁の論を引こう。「
マルタ・アルゲリッチには全くびっくりしたな」という文章から。
今、私の手許には、アルゲリッチのレコードが五枚ある。その中では、私は、彼女の最初のレコード、ショパンのスケルツォ第三番とバルカローレ、ブラームスの作品七九の二つのラプソディー、プロコフィエフのトッカータとラヴェルの《水の戯れ》、それからリストのハンガリアン・ラプソディー第六番を入れたのが、最も好きである(DGG 一三八 六七二)。一九六一年の発売。といえば、一九四一年生まれの彼女が、まだショパン・コンクールに出る前、一九五七年ポーゼンのブゾーニ・コンクールとジュネーヴの国際コンクールの両方で第一位優勝したあとの演奏である。これらの大曲、難曲をならべたてたプログラムのどれをとってみても全く《個性的》な演奏であるばかりでなく、プロコフィエフを筆頭に、その離れ業的腕の冴えで啞然とさせずにいない。その上、この中の幾つかは、名人芸的でありながら、しかも魅惑にみちみちている。すでに、大家でもむずかしいことなのに、それが二十歳になったかならないかの少女の演奏なのだ。私の愛聴するレコードである所以だ。ホロヴィッツが、このレコードをきいて感嘆久しうしたという噂、私は全面的に信じる。いかにも、これは彼の心に鋭く迫ったろう。アルゲリッチはホロヴィッツとラフマニノフを誰より高く評価しているのだそうだが、だからといって、私は彼女が彼に似ているというのではない。むしろホロヴィッツにしてみれば、近年失われつつある初発的な衝動の純一さがこの少女にあるという点で羨望に足ると思われたろう。ホロヴィッツは名人芸の誇示から洗練へ進み、その洗練化の極から、今や感覚そのものの内面化、精神化への道へ歩み出しつつある。これは彼にとっても決して自然な道程ではないが、それが不可避に見えてきたところに彼の苦しさと誠実とがある。アルゲリッチに魅せられたのは、しかし、ホロヴィッツだけではない。ギーゼキングが賞賛を送り、グルダは進んでレッスンを買って出たし、彼女はミケランジェーリにもリパッティ夫人にも教えをうけている。 ──「私のレコード断章──1」『レコード芸術』1969年1月号
この文章自体が懐かしい。田舎の高校生は幾度これを読み返したことだろう。
吉田秀和は1967年11月ベルリンでアルヘリッチのリサイタル(正確に云うならその後半)に接し、その印象に基づきつつ確信を籠めて書いている。初来日の一年前、まだ日本人で彼女の実演に触れた者が(ショパン・コンクールで一緒だった中村紘子や遠藤郁子は別として)殆どいなかった時分なので、こうした文章からわれわれが蒙った影響は計り知れず、決定的な刷り込みとすらなった。
後段でのホロヴィッツとの比較対照が甚だ鮮やかである。吉田秀和の面目躍如というべきか。何十回も読み返すうち殆ど暗記してしまった。「感嘆久しうした」とか「初発的な衝動の純一さ」とか「それが不可避に見えてきたところに彼の苦しさと誠実とがある」とか。いちいち頷きながら味読したものだ。因みにベネデッティ=ミケランジェリをわざわざ「ミケランジェーリ」と誤記する癖は今も改まってはいない。
ついでに、吉田がベルリンでアルヘリッチを「発見した」直後の文章から、このデビューLPに触れた一節も書き抜いておこう。
彼女の実演を一度きけば、彼女のレコードはみんな正統を伝えたものとわかる。一つは彼女が二十歳の時入れたというプロコフィエフの《トッカータ》、ラヴェルの《水の戯れ》リストの《ハンガリア狂詩曲》第六番、それにショパンのスケルツオ第三番、とバルカローレ。ブラームスの作品七九の《二つの狂詩曲》という混ぜもの(ドイツ・グラモフォン 138672 SLPM)。[…] しかし、その中の、たとえばブラームスのラプソディーの二番ト短調をとってみても、あのソナタ形式に準じた曲の中間部。たいていの演奏できけば、ブラームスがあまり霊感もなく、不幸な展開をやってみせている場所、そういう箇所で、彼女がどんなに不思議な魅力に満ちた音楽をつくっているか。これに気がつかないのなら、ピアノの演奏の鑑賞などに血道を上げるのは無駄な話である。
それにしても、このピアニストは女性とは思えないほどの力強さを秘めた手腕の──腕力ではない!──持主だが、彼女の知性は二の腕から指先にかけての筋肉と神経に徹底的に集中している感がある。指先に知性があるといえば悪口になりかねないし、多少はそういう意味をこめて書くのではあるけれど、逆にまたそれは彼女が本能と肉体にがっちり根差した演奏家的知性の持主である証拠であり、この二重の意味で、こう言いたいのだ。
これはまったくピアノの音楽であり、彼女をきくものは、巨大な旧式な機械装置をもつ黒塗りの箱から出す唸りや響きが、奇怪な夢にみちた情熱をかきたてるその不思議に正面からぶつかることになる。 ──「ピアノの若獅子たち」『芸術新潮』1968年
これ以上、何を付け加えるべきだろうか。恐るべき耳と洞察である。そしてこの気障と紙一重の断定的な、だが的確この上ない言辞。吉田秀和には全くびっくりしたな。