一昨日から昨日にかけて横臥しながらウェブラジオで続けざまに
ガーシュウィンを聴いた。久しく遠ざかっていた沸き立つような歓びが体内を駆け巡るのを実感した。こんな体験は何年ぶりだろうか。
愚かしい学生時代にはガーシュウィンの良さがさっぱりわからなかった。
「ラプソディ・イン・ブルー」冒頭のクラリネットの下卑たグリッサンドが大嫌いだったし、「パリのアメリカ人」のクラクション模倣にも耳を覆った。なんという安手な音楽なのだろう──そうした悪印象ばかり先走ってどうにも好きになれなかった。
思いがけず転機が訪れたのは1975年だった。ライヴスポット「荻窪ロフト」の常連客として深夜に
ジャニス・ジョプリンの "Summertime" (
→これ)、
フィービ・スノウの "There's a Boat Dat's Leavin' Soon for New York" (
→これ)、更には
ヘレン・メリルの "'S Wonderful" (
→これ)を続けざまに聴いて電撃を喰らったように驚愕した。こんなガーシュウィンもあったのか!
世にも不思議な回路が開けたものである。云わば搦め手から恐る恐る敵陣に攻め入るような塩梅。だがこれこそが正真正銘わが「ガーシュウィン事始」だった。
それから五年後、第二の、そして本物の出逢いがやってくる。
1980年1月22日、場所の記憶は定かではないが、銀座ガスホールではなかったかと思う。ウディ・アレンの新作《
マンハッタン》の試写会があった。うまい具合に招待状をせしめて出掛けた。当日の日記があれば引用するところだが、何ひとつ書き残していないので、二十七年後の2007年に再見した折りの感想文から引く(記事全文は
→「ゴードンとウィルモス」)。
『マンハッタン』はこれが五、六度目だろうか。最初に観たのは1980年1月22日、場所は失念したが有楽町か銀座界隈、この映画の試写会だった。当時、大学生協のプレイガイドで働いていたので、役得としてときどき招待葉書が貰えたのである。たしかこのときは家人や友人のY君と一緒だったような気がする。
今日、久しぶりにワイドスクリーン上映で、初めて観たときの驚愕を思い出すことができた。なんといっても冒頭のシーンが凄い。ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が奏でられるなか、ニューヨークの街並が静止画像ふうに矢継ぎ早に映し出される。画面はモノクロだ。いきなりなので度肝を抜かれる。そこにウディ・アレンのナレーションがかぶさる。小説の書き出しらしく、言い回しを替えつつ何度も繰り返される。いつしか「ラプソディ・イン・ブルー」はクライマックスに差しかかり、マンハッタンの夜景に花火が続けざまに炸裂するシーンで終わる。
正直なところ、この映画の最大の見所は冒頭のこのシークエンスなのではないか。そう軽口を叩きたくなるほどに、息を呑むような風景の連続だ。そこにガーシュウィンを重ねるとはウディ・アレンはあざといなあ、と思いつつ、今回も溜息をつきながらつい見惚れてしまう。撮影監督ゴードン・ウィリスの腕は冴えわたっている。
そのあとの展開はご存知のとおり、こと細かく書くまでもあるまい。うだつの上がらぬ四十二歳男が前妻(メリル・ストリープ)、友人の浮気相手(ダイアン・キートン)、二十五も年下の恋人(マリエル・ヘミングウェイ)の間で右往左往するというコメディだ。芳紀十七歳のマリエル嬢は無論のこと、誰も彼もがずいぶん若いのに驚いてしまう。二十七年前に観たときはウディ・アレン扮する中年男の一喜一憂にためらわず失笑したと思うのだが、今や当方がそれを遙かに上回る年齢になってしまっている。生身の人間はいざ知らず、フィルムは歳をとらないのだなあ、とつくづく実感。
そうなのだ。ウディ・アレンの《マンハッタン》、その冒頭のシークエンスこそが真の意味で、わがガーシュウィンとの最初の接近遭遇だった。しかもそこで聴く音楽がそれまで忌み嫌っていた「
ラプソディ・イン・ブルー」だったのだから、これは文字どおり決定的な体験となった。まさしく魔法のような数分間ののち、小生はガーシュウィンの虜となり、その比類のない魅惑を直覚したといえると思う。本当は大スクリーンでないと充分でなのだが、せめてその一端なりともお目にかけようか(
→これ)。
記憶のなかでは「ラプソディ・イン・ブルー」がまるごと一曲分、即ち十数分間ずっと続くシークエンスだった…と思いきや、実際には抜粋されて僅か三分半ちょっとなのである。その間にNYマンハッタンの朝から夜までが眼の醒めるように鮮やかなモノクロ撮影で点綴され、最後の壮麗な花火シーンへと雪崩れ込む。まさしく瞬きする暇もない展開である。この豪奢な映像にこれ以上ぴったり似つかわしい音楽は想像もできないだろう。流石にウディ・アレンはガーシュウィンの魔力を知り抜いている。
いつの日かまた銀幕の上で再見したいものだ。その機会が巡ってくるまでは手許にあるサントラ盤を聴いて我慢するほかあるまい。
"Music from the Film Manhattan"
ガーシュウィン:
ラプソディ・イン・ブルー*
ガーシュウィン(トム・ピアソン編):
ランド・オヴ・ザ・ゲイ・キャバレロ
サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー
アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー
ドゥー、ドゥー、ドゥー
マイン**
ヒー・ラヴズ・アンド・シー・ラヴズ
ブロンコ・バスターズ
オー、レイディ・ビー・グッド
ス・ワンダフル
ラヴ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ***
スウィート・アンド・ロウ=ダウン
ブルー、ブルー、ブルー
エンブレイサブル・ユー
ヒー・ラヴズ・アンド・シー・ラヴズ
ラヴ・イズ・スウィーピング・ザ・カントリー~ランド・オヴ・ザ・ゲイ・キャバレロ
ストライク・アップ・ザ・バンド
バット・ノット・フォー・ミー
ズビン・メータ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
ピアノ/ゲイリー・グラフマン*
Piano/ディック・ハイマン、Bass/ミルト・ヒントン、Drums/エリック・コーエン**
Violin/ルイス・エリー、Piano/ディック・ハイマン、Bass/ミルト・ヒントン、Guitar/ブライアン・クーニン、Drums/エリック・コーエン***
1979年、ニューヨーク
CBS MK 36020 (1990)
映画のサウンドトラック録音にNYフィルが起用されるなんて前代未聞の快挙ではないか。ゴージャスこのうえない贅沢さなのである。録音現場にはウディ・アレン自らも立ち会ったそうな。たまたま前年(1978)から常任指揮者をメータが務めていたのも僥倖なるべし。その前だったらブーレーズだものね。