あれは1980年か、81年か、知人に誘われて六本木のマンションにある小さな版画商を初めて訪れた。たしか年末恒例のバーゲンの折りだったと思う。駆けだしの編集者だった頃で懐具合はひどく寂しかった筈だが、それでも奮発すれば買えない金額でもないところが西洋版画の怖いところだ。デューラーやレンブラントは無理だとしても、版画史にそれなりに名を残す16~18世紀の名匠たちのオリジナルが数万かそこらで手に入るのは大いなる誘惑である。19世紀ともなれば
マネや
ガヴァルニや
ファンタン=ラトゥールらの石版画がそこそこの値段で目白押し。なかにはきっかり一万(ちゃんと額縁に入って、である)というのもある。いけない、これは目の毒だ。
そのマンションには六畳ほどのささやかな展示室があって、
ギャルリー・アルシュ Galerie Arche と名乗っていた。「方舟画廊」とでもいうのか、スペースの狭さを逆手にとって、「ここには森羅万象あらゆる種が犇めいている」といった意味なのであろう。自嘲と矜持が半々に入り混じったネーミングだ。
画廊主は志久内亮さんという博覧強記の人物だった。歳の頃は四十代後半か。もともと講談社の美術全集を担当した辣腕編集者で、その後は語学力と豊富な渡航経験を生かして西洋版画の買付に乗り出し、並行して美術専門のフォト・エージェンシーを経営、更には美術・音楽評論も手掛けるという多才にして異能の人だった。旧名を
栗田亮さんといい、数寄屋橋(のち銀座)に「ガレリア・グラフィカ」という版画専門のユニークな画廊を開いていたが、奥さんと離婚した際に手放し、再婚するにあたり旧姓を捨て「志久内」姓を名乗った。六本木の「方舟画廊」はその彼が捲土重来を期した再挑戦だったとおぼしい。
「栗田亮」という名前には見覚えがあった。1960年代末から70年代の初頭にかけ、『ステレオ芸術』というクラシカル音楽の専門誌(老舗の『レコード芸術』の対抗馬的なスタンスだった)があり、その常連として新譜レコード評に健筆を揮っていたのを憶えていたからだ。初来日した
マルタ・アルヘリッチを相手に丁々発止、当意即妙のインタヴューを敢行したのも栗田さんだった(ほかに
エッシェンバッハ、
アシュケナージなどにもインタヴューしていた)。天才的な語学力の持ち主だったらしく、英仏独伊露を何の苦もなく流暢に話した。
小さなギャラリーの四方の壁は上から下までぎっしり隈なく版画で埋め尽くされていた。普段は美術館の展示室でしか拝めぬような「泰西版画」の数々がすべて売り物、手頃な価格で手に入るとあって色めきたった。努めて冷静を装ったが、胸の鼓動が高鳴るのを抑えられない。どれにしようか。
程なくそのなかの一点に目が釘付けになった。銀色の額縁に収まった小品がこちらに微笑みかけている。この魅力的な作品は一体なんだろう(
→これ)。
仮装舞踏会の一場面だろうか。花のような踊り手たちが艶やかに舞い集う。「花のような」は修辞ではなく、頭と両袖と、それからスカートが本当に花弁でできている。腰には幾重にも葉が連なる。題名は "Belle-de-nuit" という。「夜の美女」──咄嗟にわからなかったが、あとで辞書を調べたら「オシロイバナ(白粉花)」とある。成程、これは花の精たちの典雅な夜会なのだ。傍らに無気味な蛾が佇んでいる。
この版画の奇妙な絵柄にはたしかに見覚えがあった。
高校生の頃、ラジオで耳にした音楽を改めて確かめるため、上野の文化会館の音楽資料室で請求したLPがこんなジャケットで装われていたのである(
→これ)。
栗田さんは小生の顔を覗きこむと、目を細めながら嬉しそうに小声で問いかけた。「
おや、グランヴィルがお気に召しましたか?」
これはグランヴィルの遺作 《
生命ある花々Les Fleurs animées》(1847)の一枚で、したがって本人は手彩色を監督していないこと、このシリーズは石版画でも銅版画でもなく、グランヴィルには珍しく硬い鋼板に刻まれた版画であること。そんな基本的な情報をそのとき彼から教示されたのだと記憶する。
バレエ音楽『蜘蛛の饗宴』に因んでLPジャケットにグランヴィルを登場させたのは誰の知恵だったのか…。不思議な魅力を湛えた愛すべきルーセルの音楽が頭のなかで鳴りだしていた。小生はすっかりのぼせ上がってしまって、この小さな版画になぜ目を留めたのか、肝腎な理由をとうとう栗田さんに話さずじまいだったと思う。
大切に抱えるように持ち帰った額入り版画は、今も拙宅の廊下に掛かっている。
昔のLPとはちょっと演目が異なるけれど、今日はこの懐かしい演奏をCDで聴こう。クリュイタンスのルーセル。
ルーセル:
交響曲 第三番
交響曲 第四番
バレエ組曲『蜘蛛の饗宴』*
弦楽のためのシンフォニエッタ*
アンドレ・クリュイタンス指揮
パリ音楽院管弦楽団1965年6月15~19日、1963年11月5~13日*、パリ、サル・ヴァグラム
東芝EMI CC33-3737 (1988)