たった今しがた、また友人から教えられたのだが、今日はロシアの指揮者
キリル・コンドラシン Кирилл Петрович Кондрашин の命日でもあるのだという。しかも今年は歿後きっかり三十年目にあたる。知らなかったなあ。まだ間に合う。日が改まらぬうちに追悼コンサートを催さねばならぬ。
"Kirill Kondrashin in concert
with the Moscow Philharmonic Orchestra"
チャイコフスキー:
バレエ音楽『胡桃割り人形』抜粋
■行進曲~子供たちのギャロップと両親の登場~情景と祖父の踊り~情景、賓客の退場、夜~情景、戦闘~松林~雪の円舞曲*
交響曲 第六番
キリル・コンドラシン指揮
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
モスクワ児童合唱団*
1978年3月29日、モスクワ音楽院大ホール(実況)
Globe GLO 6009 (1992)
同時代のソ連の芸術家たちと同様、キリル・コンドラシンの生涯は栄光と悲惨とに深く領されている。彼の音楽を粛然たる思い抜きに聴くことは許されない。
スターリン時代、レニングラードのマールイ劇場、モスクワのボリショイ劇場の指揮者として頭角を現す。国際的には1958年チャイコフスキー・コンクールの勝者ヴァン・クライバーンの帰米凱旋公演に同行したのと、61年のスヴャトスラフ・リヒテル初訪英に同行したのを契機に、その端倪すべからざる実力が西側でも知られた。
国内では当時の反ユダヤ的な風潮に抗して
マーラーの交響曲の演奏・録音に尽力したほか、ソ連の同時代音楽の演奏にも極めて熱心だった。1960年にはモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、名実共にソ連を代表する指揮者として八面六臂の活躍を繰り広げる。
とりわけ戦前から永くタブー視され封印されていた
ショスタコーヴィチの
第四交響曲を1961年に初演して作曲家の絶大な信頼を勝ち得たのが重要である。翌62年、ショスタコーヴィチ最大の問題作である
第十三交響曲の初演を(ムラヴィンスキーの辞退に伴い)勇気をもって引き受けたことはコンドラシンの名を更に光輝あらしめた。当局から再演を禁じられ、永く録音もなかったこの交響曲をコンドラシン指揮による海賊盤LPで初めて耳にした日の衝撃を、小生は生涯ずっと忘れないであろう。彼はこのほかカンタータ「
ステパン・ラージンの処刑」と
第二ヴァイオリン協奏曲(独奏=ダヴィド・オイストラフ)の初演も手がけている。
1970年代に入るとソ連当局は史上初のショスタコーヴィチの交響曲全曲録音をコンドラシンの手に委ねた。こうして彼はショスタコーヴィチ演奏の第一人者(ムラヴィンスキーはまあ「別格」である)と自他共に認めるに至ったのである。
その彼が1975年、六十一歳で手兵モスクワ・フィルの常任を辞している。その背後に何があったか事情を詳らかにしないが、この前後から彼の西側での客演活動が比重を増していったことは紛れもない事実である。
そして1978年12月、オランダ楽旅中「完全な芸術的自由を得るために」突然の亡命表明。三人の息子を祖国に残したままの捨身の出国だった。こうしてソ連は最も才能と覇気と情熱に満ちた音楽家を失ったのである。
今こうして聴いているチャイコフスキーは、亡命の僅か九箇月前の1978年3月、モスクワでの演奏会の生々しい実況。録音エンジニアだった息子ピョートルが私的に保存していたものという。只ならぬ緊迫感に貫かれた途轍もない演奏である。『胡桃割り人形』はムラヴィンスキーの実演と双璧というべき壮絶さだし、悲愴交響曲の悲劇性の深さは尋常でない。このとき既に亡命を決意していたであろうコンドラシンの心中は如何ばかりだったろうか。
それからのコンドラシンに残された歳月はあと二年ちょっとしかなかった。アムステルダム・コンセルトヘバウ管弦楽団の首席客演指揮者として、更にはミュンヘンのバイエルン放送交響楽団の次期常任指揮者として華々しい活躍が約束されていた矢先、突然の訃報が舞い込んできたのである。そのときの衝撃の大きさも忘れがたい。小生なぞはてっきりKGBの刺客による暗殺ではないかと邪推したほどだ。
1981年3月6日、アムステルダムで親しい友人に囲まれて六十七歳の誕生日を祝ったコンドラシンは、翌7日、たまたま来訪中のハンブルク北ドイツ放送交響楽団の関係者からクラウス・テンシュテットの代役としてマーラーの第一交響曲を振るよう懇願される。同曲はコンドラシンの「十八番」だったから、彼はリハーサル無し、ぶっつけ本番での指揮を快諾した。その晩コンセルトヘバウ楽堂に鳴り響いたマーラーの素晴らしさは誰もが認めるところである。直截で柔軟で即興性に満ちた(なにしろ練習なしなのだ)見事な出来映えだった。
演奏会を成功裏に終えたコンドラシンはその晩ホテルに戻るとそのまま心臓発作で急逝してしまうのである。
辛いけれども、今こそ聴くことにしよう。三十年前の今月今夜、キリル・コンドラシン最期の指揮がどのようなものだったかを。
マーラー:
交響曲 第一番
キリル・コンドラシン指揮
ハンブルク北ドイツ放送交響楽団
1981年3月7日、アムステルダム、コンセルトヘバウ(実況)
Cincin CCCD 1022 (1994)