愛用していたデジカメが壊れて撮影できなくなってもう数箇月になる。当座は不自由はないのでそのまま放置しているが、いずれ新しいカメラが欲しくなるだろう。
この小さなカメラは2002年の夏、芦屋市立美術博物館に残された吉原治良旧蔵のロシア絵本を調査に出向く際、接写ができる機種が必要になり慌てて調達したものだ。デジカメを買ったのはこれが初めてだった。映像をその場で確認できる有難味をつくづく噛みしめたものだ。旅先で撮る写真に失敗は許されないからである。
その後も調査に出掛ける度に、必ずこの小型デジカメを持参した。三脚もなしに手持ちで、特別な照明も当てずに、それなりの画質の写真が撮れる。その簡便さに感動した。そんなことは今や当たり前になってしまったが。
同じ2002年の九月末、愛知県の
豊田市美術館で
若林奮(いさむ)さんの回顧展の展示作業を見学に行った。その当時まだ奉職していた川村記念美術館で三箇月後に小規模な若林展を計画していたため、展示の参考にできたらと思い、担当学芸員の北谷正雄さんの許しを得てオープニング二日前に会場を訪ねた。
そのとき目にした光景は忘れられない。既に展示作業を始めて七日目だったので、川村の所蔵作品(代表作である五本の《
振動尺》)を含め、あらかたの作品は並んでいたが、最新作をはじめとする重要ないくつかの彫刻の展示は未着手だった。
若林さんの作品はとにかく恐ろしく重たい。とりわけ鉄や鉛の彫刻は「むく」、すなわち空洞のない金属塊そのものだから、途轍もない重量になる。大の男が数人がかりでも微動だにせず、フォークリフトや小型重機の援けを借りてようやく移動できる。この容易ならざる作業に一週間ずっと従事してきて、誰もがへとへとに疲れている。
翌二日日はオープニング前日。もう待ったなしだ。にもかかわらず、最新作の部屋の展示がなかなか終わらない。深夜になっても、若林さんは腕組みをしたまま先程からずっと長考している。床に並べられた木材のインスタレーションがどうにも納得がいかない様子。その間、助手の河英実さんも北谷さんも作業チームもひたすら作家の指示を待ち続ける。待つよりほかに術はないのだ。
結局その作品は一旦バラされ、全く別の配置に並べ替えられた。部屋の周囲の壁に掛けられた連作素描も撤去されてしまい、すべて額から外されて束ねられ、床に堆く重ね置かれた。そういうわけで展示作業は早朝まで延々と続いたのである。
その場で小生のなすべき仕事は何もない。単なる見学者、傍観者にすぎないから、余計な口出しは厳禁なのだ。さっさと宿に帰って寝てしまうべきだったかもしれない。だがこんなとき、誰が修羅場を抜け出せようか。結局すべての展示が終了する朝六時まで部屋の一隅に佇んだまま茫然と一部始終を見守っていた。
若林さんも、河さんも、北谷さんも、展示スタッフの面々も、全員が黙々と献身的に作業に打ち込んでいた。ピリピリと異様に張りつめた雰囲気のなかでは写真を撮ることすら憚られた。なんだか不躾で礼を失するような気がしたのだ。
それでもどうにかデジカメのシャッターを切った。遠慮がちに遠くから、時には接近して。疲れ果てしゃがみ込み、腕組みして思案し、作品をじっと凝視する作家の姿。撮られているのを全く意識していないだけに、素のままの若林さんがそこにいる。
それからきっかり一年後、若林さんは亡くなられた。
恐る恐る展示室で撮った数枚の写真は、妥協を許さない真摯な彫刻家の姿を偲ぶ最後のよすがとなった。だから今も若林さんは「そこにいる」。