ここ数日間というもの、鬱屈した気分で塞ぎ込んでいる。怒りと悲しみが沸々とこみ上げ、どうにも憤懣のやり場がない。
2月19日付の『神戸新聞』から記事の全文を引く。
阪神間で戦後、活躍した前衛美術集団「具体」のコレクションなどで知られる芦屋市立美術博物館(同市伊勢町)の学芸員4人全員が、大幅な人件費削減などに反発し、3月末で退職することが18日、明らかになった。学芸員の一斉退職は異例で、同館への寄託品の引き揚げを検討する所有者もあり、地域の文化を伝えるコレクションが散逸する恐れも出ている。
学芸員は、同博物館を運営するNPO法人「芦屋ミュージアム・マネジメント(AMM)」に所属。18日夜、芦屋市役所で事務職員を含む計5人が会見を開き、2010年度末での退職の意向を表明した。
同館は1991年に開館。財政難などから2006年以降、AMMに業務を委託した。学芸員は市職員からAMM職員になって仕事を続けていた。
市はさらに2011年度から指定管理者制度の導入を決定。今年1月、AMMと小学館集英社プロダクションなどを含む団体を指定管理者に選定した。
AMMなどでつくる指定管理者は、10年度に約3100万円計上していた人件費を新年度から約1100万円圧縮。学芸員を4人から2人に減らし、約2000万円に減額する方針を決めた。
約18年勤めた同館統括リーダーの明尾圭造さんは会見で「人件費や事業計画をめぐり、相談がないまま話が決まっていった。地域の歴史や文化に対する責任を考えると非常に残念だが、AMMに対する不信感が募っており、今後の運営には参加できない」と退職の理由を説明した。
一方、AMM側は「限られた予算の中で運営して行かなければならず、(退職は)残念だ」と話している。
学芸員4人全員の退職に、芦屋市立美術博物館に貴重な作品を寄贈・寄託している地域住民らが不安を募らせ、作品の引き揚げの検討を始めた。
同市で昭和初期に活躍し、前衛的な「新興写真」運動で知られた写真家・ハナヤ勘兵衛の作品を寄贈した遺族は「地元の文化をよく理解してもらい、長年、信頼関係を築いてきた学芸員がいなくなることは非常に不安だ」と話し、作品の引き揚げも検討。「(遺作は)芦屋の地域文化事業に生かしてもらいたいのだが」と複雑な心境を語る。
また江戸期の古文書や絵図などを寄贈した同市三条町の住民組織「三条会」の松本源一郎会長(69)は「週明けにでも地域のみんなで集まって話し合い、返却を求めるかどうか決めたい。今後の運営方針について、市はもっと丁寧に説明してほしい」。元「具体美術協会」メンバーの美術家、堀尾貞治さん=神戸市兵庫区=も「寄託作品は返却してもらう方向で考えている」としている。
同博物館は関係者に対し、寄託し続けるかどうかなど聞き取り調査を続けている。(神谷千晶)全く知らなかった。寝耳に水の報道である。と同時に、「やはりそうだったか」との無念の思いも沸き起こる。現職の学芸員全員が退職するとは前代未聞の出来事である。よほど居たたまれない情況だったのであろう。断腸の思いは察するに余りある。
戦前の芦屋には丘の上に豪壮な邸宅が建ち並び、裕福な美術収集家が数多く居住していた。戦災で焼失したゴッホの 《向日葵》 はこの地にあったのだ。
芦屋の街には洋画家の
小出楢重がアトリエを構え、写真家の
中山岩太や
ハナヤ勘兵衛らが住んで「芦屋カメラクラブ」を結成し、そして
吉原治良が潤沢な海外情報をもとに尖端的な絵画制作に勤しんでいた。戦後その吉原を中心に前衛的な芸術運動「具体」が花開いたことは言うまでもあるまい。日本の美術愛好家にとって芦屋は忘れることのできない「聖地」なのだ。
芦屋市立美術博物館とは浅からぬ縁がある。ふとした偶然から、この美術館に寄託されている吉原治良の旧蔵資料のなかに戦前のロシア絵本があると聞き、2002年夏に調査させていただいた。八十七冊の絵本はまるでタイムカプセルから取り出されたかのように完好な状態で次々と机の上に並べられた。
レーベジェフの『
サーカス』『
昨日と今日』『
荷物』『
プードル』が、コナシェーヴィチの『
火事』が、ツェハノフスキーの『
郵便』がある(すべてテクストはマルシャークの詩)。マヤコフスキーが子供たちに語りかける『
何になるか?』が、マレーヴィチの盟友だったエルモラーエワとユージンが共作した『
紙とハサミ』が、写真絵本の傑作『
これは何でしょう?』がある。くらくら立ち眩みがして椅子にへたり込んだ。
その場に居合わせた学芸員の河崎晃一さんはにっこり微笑むと、「これで展覧会をやれたらと思ってるんです。どうです、沼辺さん。一緒にやりませんか?」と誘った。同僚の横山幾子さんは「何年もかけ吉原の遺品を分類整理して、これらの絵本が最後に残ったんです。どれもとても可愛らしくて…」と、わが子を見るように目を細めた。
この思い掛けない出逢いからニ年を経ずして展覧会は実現した。2004年2月から芦屋を皮切りに六会場を巡回した「
幻のロシア絵本 1920~30年代」展がそれである。その成果はカタログとして公刊されている。なぜ芦屋の吉原の手元にかくも大量のロシア絵本が残されていたのか、その経緯もほぼ解明された。
芦屋の学芸員諸氏にはひとかたならぬ世話になった。その恩義は忘れないし、今も盟友であると思っている。だから今回の事態は全くもって他人事ではないのだ。
1991年 「小出楢重と芦屋-昭和モダニズムの光彩-」
1991年 「中山岩太展-印画紙の小宇宙-」
1992年 「没後20年 吉原治良展」
1992年 「仲田好江展-自分をみつめ、自分を描く-」
1992年 「具体展1(1954~1958)・甦る野外展」
1992年 「具体展2(1959~1965)」
1993年 「具体展3」
1994年 「知られざる画家上山二郎とその周辺:1920年代パリの日本人画家たち」
1995年 「ハナヤ勘兵衛展」
1996年 「村上三郎展」
1996年 「モダン・フォトグラフィ 中山岩太展」
1997年 「阪神間モダニズム展」
1998年 「富田砕花の世界」
1999年 「モダニズム再考 二楽荘と大谷探検隊」
1999年 「震災から5年 震災と表現」
2000年 「Gutai '60s」
2000年 「小出楢重の素描 開館10周年記念」
2001年 「田中敦子展」
2002年 「没後30年 大研究 吉原治良をめぐる6つの眼」
2003年 「ワレモノ注意!! 『中山岩太 Modern Photography』刊行記念」
2004年 「幻のロシア絵本 1920~30年代」天晴れである。どれをとっても芦屋の地に立脚した、芦屋でなければできない展覧会ばかりである。あまたある全国の美術館のなかで、自らの地域性とミッションを自覚してこれほど誠実に、ここまで真摯に歩を進めてきた館がどれだけあるだろうか。芦屋市立美術博物館はわが国の地方美術館の鑑だったのである。
「幻のロシア絵本」展を準備中の2003年11月、震災後の財政難に喘ぐ芦屋市は大がかりな行政改革を発表し、芦屋市立美術博物館の民間委託の方針を打ち出した。委託先が現れない場合は休館・売却も辞さないという。展覧会開催まで僅か三箇月という時点で、主催館が存亡の危機に見舞われるという事態に、関係者のひとりとして小生もまた大いに驚き、固唾を呑んでその推移を見守ったものだ。
幸いこのときは映画監督の大森一樹らを中心とする市民グループ(
→その報告書)や、内外の美術家・美術関係者の反対運動が奏功し、休館・売却という最悪の事態こそ免れたものの、美術館業務を委託外注するという芦屋市側の方針は変更されず、結局2006年から(形だけは市の直営のもと)美術館を支援するためのNPO法人「芦屋ミュージアム・マネジメント(AMM)」が運営を受託する(ただし一年毎に再契約)という暫定的な方策で辛うじて館の延命が図られた(
→その経過報告)。この過程で開館以来永く学芸員として活躍されてきた河崎晃一さんと山本淳夫さんが相次いで同館を去ったのは大きな痛手だっただろう。
それからの経緯は詳らかにはしない。遠隔地に住む小生はただ手を拱いて傍観するほかなかった。AMMの運営のもと、芦屋市立美術博物館は乏しい予算をやりくりしながら五年の歳月を耐え忍んできた、とだけここでは記しておこう。
2010年、芦屋市は美術博物館の運営に「
指定管理者制度」を導入することを決め、8月に候補団体の募集を開始した。AMMは「小学館集英社プロダクション、芦屋ミュージアム・マネジメント、グローバルコミュニティグループ」の名義(以下「AMMグループ」と略記)で応募し、一旦は他団体に敗れて次点候補に甘んじるなどの紆余曲折を経たのち、2011年1月24日に市議会での議決を経て、芦屋市立美術博物館の指定管理者として正式に任命された(指定期間三年)。
ところがこの過程で「何かが起こった」。端的に云うならAMMの背信行為である。
2010年10月22日に催された第三回「芦屋市立美術博物館 指定管理者選定委員会」の席上で、AMMグループ側は「
我々は、財団のときからの学芸員を引き継いだので、人件費の割合が非常に高かった。今回、心機一転、我々の中での行革をしていきたい」と明言し、「(常勤学芸員は)
基本的には当初2人で対応していきたい」「
学芸員については●●●や大学を中心に現在選定中」(●●●=原文伏字)と説明している(
→原文はこれ)。恐らくこの段階で、AMMグループはこれまで従事してきた学芸員をバッサリ馘首し、「心機一転」全く新たなスタッフを雇い入れることを既定の方針としていた。これらの発言を読むと、そう推察ざるを得ないのである。
こうして芦屋市立美術博物館の運営はまんまと「AMMグループ」の手中に落ちた。そうなるともう「どうにも止まらない」。
2011年2月上旬、早くもネット上に以下のような求人案内(二名)が掲載された。
美術博物館の学芸員 ※未経験者歓迎
株式会社小学館集英社プロダクション
◎仕事内容/
学芸員として美術博物館の運営に携りませんか。
美術品・博物品の調査研究から収集・保存業務や公開業務までお任せします。
芦屋市立美術博物館は、美術館と歴史博物館の機能を持った複合施設。芦屋ゆかりの芸術家たちの作品を多く収蔵・展示しています。収蔵品だけでなく、幅広い企画展を手掛けるので、様々な研究分野を活かすことができます。
上記業務だけではなく、時にはコミュニティスクールなどで鑑賞方法をレクチャーしたり。教育普及業務にも携っていただきます。職員みんなで講座の内容を考えたりできるので、自分の企画が採用されることも。
美術品や博物品など好きなモノに囲まれて仕事ができるのも魅力。やりがいがたっぷりあるお仕事です。
お客さまに展覧会の説明をしていただくこともあるので、サービス精神を忘れずにお仕事に取り組んでください。実務経験がなくても職員が丁寧に教えてくれるので安心です! 少しずつお仕事を覚えていってください。
◎雇用形態/契約社員
◎求める人材/
■大卒以上
■学芸員資格をお持ちの方(平成23年3月取得見込みを含む)
■基本的なPC操作ができる方 ※イラストレーター、フォトショップ等を使える方歓迎!!
■人と接することが好きな方
◎勤務地/
芦屋市立美術博物館 (以下略)呆れてものが云えないとはこのことだ。
「美術品や博物品など好きなモノに囲まれて仕事ができるのも魅力。やりがいがたっぷりあるお仕事です」──成程そうかもしれない。「サービス精神を忘れずにお仕事に取り組んでください」──そりゃそうだ、客商売だものね。
だが次の一節は嘘八百だろう。「実務経験がなくても職員が丁寧に教えてくれるので安心です! 少しずつお仕事を覚えていってください」──先輩たちがいなくて、いったい誰が彼らを導くというのだ!
求人にあたってかくも歯の浮くような愚劣な文言が弄されたことに腹の底から憤りを覚えずにいられない。芦屋市立美術博物館の歴史に泥を塗る行為である。
周知のとおり、この求人を行った「小学館集英社プロダクション」とは、静岡県から運営を委託された施設「静岡県立三ヶ日青年の家」で2010年6月、カッターボート訓練中に女子中学生を死なせた痛ましい事故を引き起こした当事者である。
とはいうものの危惧するには及ばない。美術博物館の運営を委託されたからといって、誰も溺れたりはしない。どんな展示をしても人が死ぬことはない。死ぬのは日本の文化だけだ。「小学館集英社プロダクション」よ、安んじて事に当たり給え。
恐らく彼らは今頃ほくそ笑みながら、心中密かにこう嘯いていることだろう。邪魔な抵抗勢力は去った。好都合にも全員が退職してくれて厄介払いができた。これからは我々の好きなように運営できるぞ、と。
だが魯鈍な彼らもいずれは思い知らされるだろう。学芸員は美術館の命綱なのだ。それを断ち切ってしまったら最後、館は奈落の底に転落するほかないことを。