1912年2月、グレインジャーはビーチャムが催す二回の演奏会のためロンドンに戻った。ビーチャムが彼に副指揮者のポストを提供したのはこのときである。明らかにビーチャムはこのオーストラリア人の才能を高く買っており、ディアギレフのロシア・バレエ団がロンドンで催す次回公演のため音楽を書くよう依頼までした。ビーチャムはシナリオ提供を申し出たものの、約束を先延ばししていたところ、痺れを切らしたグレインジャーは1913年12月に作曲に着手してしまう。結局のところ、ビーチャムはシナリオを提出せず、グレインジャーは筋書なしで曲を仕上げる羽目になった。ただし、これが演奏されるのは更に数年を経過してからで、そのとき彼はもうロンドンにいなかった。最終的に「戦士たち──架空のバレエへの音楽 The Warriors──Music to an Imaginary Ballet」と題されたこの音楽は、他のどの作品にも増して、グレインジャー称賛者の間で賛否両論を巻き起こしてきた。これこそ預言的な大天才の仕事と評する者がいるかと思えば、ただ眉を顰める者もいる。
ジョン・バードの評伝から当該個所を引いてみた。
グレインジャーがディアギレフのバレエ・リュスのために作曲したバレエ音楽がある。これはなんとしても聴いてみたいものだ、と誰しも思うだろう。
今日はいよいよこのグレインジャー最大の問題作、「
戦士たち」を聴く日だ。
"Holst: The Planets ・Grainger: The Warriors"
グレインジャー:
「戦士たち」
ホルスト:
組曲「惑星」*
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
フィルハーモニア管弦楽団
モンテヴェルディ合唱団(女声)*
1994年2月、ロンドン、オール・ハロウズ、ゴスペル・オーク
Deutsche grammophon 445 860-2 (1995)
たしかにこれは凄まじく衝撃的な音楽だ。ストラヴィンスキーの三大バレエに勝るとも劣らない斬新な音楽だったことは疑いない。光彩陸離たる響き、リズミカルな躍動、抑えきれない内発的な生命力の爆発。十八分間のなかにグレインジャーを育んだ時代精神たる「エラン・ヴィタル」のすべてが籠められている。
この「架空の」バレエ音楽には漠然たるプロットがあった。作曲当時グレインジャーが書き留めた粗筋を引くなら、
ありとあらゆる時代と地域のさまざまな男女の戦士たちが集い…昂奮して戦さながらの舞踊、行進、お祭り騒ぎにうち興じ、その合間に愛欲の間奏が挟まれる。…子供じみて傲慢不遜な野蛮な老若男女が集う、あたかもワルハラ城のような趣だ──古代ギリシアの英雄たち…肌の黒く光るズールー族…亜麻色の髪のヴァイキング族…敏捷快活なアマゾン族…蹲るグリーンランドの女たち…赤い肌のインディアン族…フィジーのネグリト族…優雅なポリネシアの食人族…その他すべての種族の者たちが手に手を携えて、陽気で無垢な自負心と、獰猛と歓喜に満ちた動物的な生気を漲らせる。
なんとも野放図で壮大な乱痴気騒ぎである。このバレエ音楽がもしもディアギレフの手に届いて、レオニード・マシーン振付によりロンドンやパリで上演されたなら…と夢想するだけで昂奮を禁じえない。しかしながら歴史はそのような路を歩むことなく、「戦士たち」は単なる管弦楽作品として米国ヴァージニア州ノーフォークの音楽祭で1917年にひっそりと初演された。
「戦士たち」は六年後の1923年にフランクフルトで再演された。そのとき(この曲の被献呈者である)
ディーリアスはリハーサルを耳にし、「たいそう強い、ヴァイタルでリズミックな作品…実に興味深い…グレインジャーがこれまでに書いた最高の曲」と称賛した由。複雑に錯綜する書法によるスコアは扱いづらく、巨大な管弦楽に各種の打楽器、ピアノ三台まで要する特異な編成も敬遠され、実演の機会はそれ以来ばったり途絶えてしまう。第二次大戦後も永く忘却の淵に沈んだままだった。
ジョン・エリオット・ガーディナーは英国歴代の名だたる指揮者として恐らく初めて「戦士たち」に着目し、それをロンドンの腕自慢のオーケストラと見事な録音に仕上げ、堂々と有力レーベルから世に問うた。これこそグレインジャー演奏史上に燦然と輝く快挙というべきであろう。ビーチャムが果たせなかった約束を孫の世代がようやく履行したといってもいい。
アルバムの主役だった筈のホルストの「惑星」もここでは影が薄い。「戦士たち」の眩いばかりの光彩に気押されて、すっかり顔色を失ってしまったかのようである。