20世紀初頭から1950年代までの永きにわたり活躍した世界的なピアニストだった割に、
パーシー・グレインジャーの録音は僅かしか存在しない。1910~20年代のピアノ・ロール録音を除くと、彼のSP録音リストは実に乏しい。大曲ではショパンの第二・第三ソナタ、シューマンの第二ソナタと交響的練習曲、ブラームスの第一ソナタがあるだけで、あとは自作とグリーグとドビュッシーの小品がひと握り。驚くほど少ないのだ。伝記を紐解いても、グレインジャーが収録を嫌った事実はなく、何故こうまで録音スタジオと疎遠だったのか、理由はよくわからない。
戦後になるとグレインジャーの名声は急速に衰え、ピアニストとしても作曲家としても時代遅れの存在と看做されるようになった。不遇な晩年といっても過言ではない。そのためLP時代にその晩年の至芸を記録する機会も逃している。
とりわけ悔やまれるのは彼が得意中の得意としていた
グリーグの
ピアノ協奏曲の録音が遂になされなかったことだ。若い頃その実演を作曲家から絶賛され、英国での共演を切望されたエピソードは、グレインジャーが誇りとするところだった。この「十八番」を彼は生涯にわたり世界各地のオーケストラと共演し、スタジオ録音を念願したにもかかわらず、愚かにもレコード会社はその機会を与えなかったのである。
その意味で戦時下のアメリカで彼がこの協奏曲を
レオポルド・ストコフスキーと共演した実況録音が放送用のアセテート盤として後世に遺されたのは不幸中の幸いと云うべきだ。しかも音質は(屋外であるにも拘らず)悪くない。
"A Grainger/Stokowski Collaboration"
グリーグ: ピアノ協奏曲*
グレインジャー:
組曲「早わかり(In a Nutshell)」**
デンマーク民謡組曲**
ピアノ/パーシー・グレインジャー
レオポルド・ストコフスキー指揮
ハリウッド・ボウル交響楽団
1945年7月15日*、1946年7月21日**、
ロサンゼルス、ハリウッド・ボウル(実況)
Archive Documents ADCD 2003 (1998)
グレインジャーは絶好調である。何よりも曲への没入の度合が尋常でない。凄まじい集中。この協奏曲をここまで精魂籠めて弾き切った例を寡聞にして知らない。構えの大きいストコフスキーの指揮と相俟って稀にみる名演奏となった。因みに両者の初顔合わせは1916年、曲は同じこのグリーグの協奏曲であった由。
思えばここ
ハリウッド・ボウルは十七年前の1928年8月9日、彼が最愛のエラと結婚式を挙げた場所である(エラは日本人外交官でシドニー領事の徳川家正の愛人だったため、グレインジャーは徳川と直談判の末やっと彼女との結婚に漕ぎつけた。やれやれ!)。演奏会では新曲「
北欧の王女へ To a Nordic Princess」が披露され、そのあと衆人環視のもと挙式するという大胆さ、臆面のなさこそグレインジャーの真骨頂だろう。当今のロック・スターでもそこまではやるまい。
それはともかくストコフスキーとグレインジャーは余程ウマがあったのであろう。同じこの1945年7月15日のプログラムでは更にもう一曲、グレインジャー作曲の管弦楽小品「
岸辺のモリー」も演奏されたらしい。その録音も残っている。
"Percy Grainger in Performance"
グリーグ: ピアノ協奏曲*
グレインジャー:
岸辺のモリー**
組曲「早わかり」***
ピアノ/パーシー・グレインジャー* ***
レオポルド・ストコフスキー指揮
ハリウッド・ボウル交響楽団
1945年7月15日* **、1946年7月21日***、
ロサンゼルス、ハリウッド・ボウル(実況)
Music and Arts CD-1002 (1997)
グレインジャーは翌1946年7月にも再度ハリウッド・ボウルに招かれ、自作の組曲「
早わかり」と「
デンマーク民謡組曲」でストコフスキーと共演している(グレインジャーはピアノ・パートを担当)。ストコフスキーの魔術的な指揮はグレインジャーの溌剌たる生命の横溢を余すところなく捉えていて流石である。芳しくない実況録音からもそれがひしひしと看取されよう。
意気投合した両者は更に大掛かりなプロジェクトに着手する。
ストコフスキーはグレインジャーの代表曲のレコーディングを決断し、そのための新たな編曲を作曲者に依頼したのである。グレインジャーの喜びようといったらなかった。彼は人気の高い自作数曲を選び、丹精込めて大管弦楽用の編曲に没頭した。何しろ「オーケストラの魔術師」じきじきの依頼である。こんな慶事はグレインジャーの生涯でこのときだけ。「ただ一度、二度はない」事件だった。
記念すべき録音は1950年5月と11月、作曲家立ち会いのもとニューヨークで行われた。この街の腕利きの奏者たちが召集され、臨時編成の管弦楽団が組まれた。
"Stokowski: Percy Grainger Favourites"
グレインジャー:
カントリー・ガーデンズ*
モリスもどき
ある朝早く**
シェパーズ・ヘイ!*
アイルランド、デリー州の調べ**
岸辺のモリー
ストランド街のヘンデル*
レオポルド・ストコフスキー指揮 彼の交響楽団
ピアノ/パーシー・グレインジャー*
1950年5月31日、11月8日**、ニューヨーク、RCAスタジオ
Cala-The Leopold Stokowski Society CACD 0542 (2005)
(まだ聴きかけ)