ケン・ラッセル監督のTV映画『
夏の歌』を観るまで、
パーシー・グレインジャーの名前すら耳にしたことがなかった。それも無理からぬことだ。1970年当時、わが国でグレインジャーの音楽を収めたLPレコードは皆無、ただの一曲もレコードで聴けなかったのである。
ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして鳴らしたSP時代はいざ知らず、グレインジャーが歿した1961年以降、その作曲家としての名声は急速に遠のいていった。日本だけではない。欧米でも事情は同じだったらしく、ブラスバンド用の作品が僅かに聴かれたのを例外に、その膨大な遺産(ピアノ曲、管弦楽曲、室内楽、歌曲、合唱曲、自作の新楽器のための実験曲など)は殆ど手つかずのまま忘却の淵に沈んでいた。
実は英国ではその少し前
ベンジャミン・ブリテンが盟友ピーター・ピアーズと共にグレインジャーを讃えるアルバム "Salute to Percy Grainger"(1969/Decca
→これ)を制作し、グレインジャー復活の先鞭をつけているが、日本盤LPは遂に発売されなかったし、まるで話題にもならなかったと思う。英国民謡の発掘・編曲の先達としてブリテンがグレインジャーを敬い慕う気持ちは今ではよくわかるのだが、当時この劃期的なアルバムの意味するところを理解する日本人は殆どいなかったに違いない。わが国でこれが日の目を見たのはつい最近、実に2006年になってからである(そのレヴューは
→「パーシー・グレインジャーを讃えよう」)。
その後、70年代後半に英国と豪州では第一期「
グレインジャー・ルネサンス」が萌す。新録音がとにかく集中的になされたのだ。
EMIから
ダニエル・アドニの弾くピアノ曲集(1976)や
ネヴィル・ディルクス指揮による管弦楽曲集(1979)が、RCAからは
ケネス・モンゴメリー指揮による管弦楽曲集(1979)が出たし、生地オーストラリアでは放送局ABCで何枚もの新録音が陸続となされ、英EMIがそれらの再編集盤をリリースしてもいたのだが、いずれもが日本では等閑視されたとおぼしい。もっとも、この時期の小生は日本のロックやブルーズばかり追いかけていて、グレインジャーなぞまるで眼中になかったのであるが…。
真の意味でグレインジャーの音楽を知り得たのはCD時代の到来からである。
折りしも20世紀が残り僅かとなり、モダニズム神話の崩壊と共に、それまで忘れ去られていた(往時はそこそこ注目された)20世紀前半の「知られざる作曲家」たちがどっと復活を遂げ、怒濤のようなその奔流のなかで、わがグレインジャーの音楽も全面的な再評価がなされ始めたのである。
その嚆矢となった象徴的な一枚を挙げておこう。
"Youthful Rapture: Chamber Music of Percy Grainger"
グレインジャー:
ストランド街のヘンデル
収穫の讃歌
ピーター卿の馬丁
「スカンディナヴィア組曲」
モリスもどき
私のロビンは緑の森へ
乙女と蛙
サセックスの旅役者のクリスマス・キャロル
岸辺のモリー
若々しい昂奮
到着ホームで唄う鼻歌
コロニアル・ソング
ヴァイオリン&ヴィオラ/ジョエル・スミルノフ
チェロ/ジョエル・モアシェル
ピアノ/スティーヴン・ドルーリー
「コラージュ」楽員
1984年12月、1985年3月、
ボストン、ノースイースタン大学、ウェルズリー・カレッジ、ホートン記念礼拝堂
Northeastern NR 228-CD (1987)
ノースイースタン・ユニヴァーシティはボストンの私立大で1898年創設、音楽学部は実践的な教育方針で知られる由。その大学名を掲げたレーベルからグレインジャーの室内楽(作曲者は「
ルーム=ミュージック」と呼び習わした)アルバムが出た理由は定かでないが、技術的にも音楽的にも極めて高水準の収録内容だ。それもその筈、奏者たちの多くは地元ボストン交響楽団のメンバーなのだ。
グレインジャーのオリジナル作品と民謡編曲をバランスよく配し、楽譜の隅々まで目を光らせた演奏がことのほか素晴らしく、ライナーノーツも啓蒙的で頗る有益。流石に大学が出したCDだけのことがある。小生はこのアルバムを繰り返し聴くうちにすっかりグレインジャーの秘法の虜になった。
録音から四半世紀が過ぎた今もなお傾聴に値する名盤。入手も比較的容易だろう。因みに日本におけるグレインジャー研究の第一人者である宮澤淳一さんも、このディスクでグレインジャーと最初の遭遇を果たしたとのこと。真っ先に聴くべき一枚。