(承前)
そろそろ今夕の観劇のことが気懸かりになってきた。
イングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)で新作歌劇を観たいのだが、切符の手配をしていない。そもそも残券があるのかどうかも判然としない。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、そそくさと大英図書館をあとにする。道を隔てたところにあるゴシック聖堂と見紛う壮麗な煉瓦造りのセント・パンクラス駅に駆け込んだ。外がうそ寒いので建物の外観をのんびり眺めている余裕はない。ここ(キングズ・クロス=セント・パンクラス駅)から地下鉄のピカデリー・ラインに乗り込む。
レスター・スクエアで下車。懐かしい "Mind the gap!" のアナウンスを小耳に挟みつつ地上へ出る。昨晩の雪でこの界隈もいつもの景色とは大きく様変わりしている。白一色の倫敦である。先ずはチャリング・クロス・ロードから一本裏手のセント・マーティンズ・レインへと抜けると、球体を頂上に頂いた古めかしいコラシーアムが見えた。ENOの建物である。ここで上演中の『
犬の心臓 A Dog's Heart』を観ようという目論見である。11月20日に英国初演されたばかりの新作オペラは全七公演、わが滞在中に三回は舞台にかかるらしいが、できれば今夕に観てしまいたい。まさか全日完売ということもあるまいが、『タイムアウト』誌の記事でも好意的に取り上げられていたので油断ならない。そう思うとついつい足早になるが、倫敦初日に雪道で転んだのでは洒落にもならない。逸る心を抑えて慎重に歩を進める。
ENOは倫敦で最も馴染深い劇場だ。コヴェントガーデンの王立歌劇場よりも遙かに安価で庶民的な雰囲気が好もしいし、英語上演という気安さも手伝い、この街に来る度に足繁く通っている。勝手知ったる扉を開けボックス・オフィスに駆け込み、いつものように "Tonight's ticket, the best seat, please!" と発語する。流石に正面席はあらかた塞がっているが、平土間席の前から六列目、「Fの4」があるという。悪くなさそうだ、それにする。五十ポンドを奮発した。オペラだもの!
チケットを入手してしまうと一気に緊張がほぐれた。時計を見るとまだ二時少し前。夕方の観劇まではまだたっぷり時間がある。流石に空腹を覚えたので、チャリング・クロス・ロード沿いの「香港茶餐廳」という中華料理店に入ってみる。小綺麗なカフェのような店構えで、安価だが美味いという評判だったのだが、店員に薦められた定食の肉料理の不味いのなんのって。ここを選んだのは失敗だったようだ。
普段ならこのあと界隈の古本屋街をゆっくり散策するのだが、どうにも外気が冷たくて我慢ならないし、たちまち尿意が波状攻撃のように襲ってくるのに閉口する。かくなるうえは生理的欲求に応えるべく、程近いトラファルガー・スクエアの
ナショナル・ギャラリーに走り込む。入館は無料。ご不浄だけで済ますには勿体ないので、申し訳程度に少しだけ鑑賞することにした。なので今日はほんのサワリだけ。ピエロ・デッラ・フランチェスカ、ファン・エイク、それにレンブラントとフェルメール。あとはスーラの 《アニエールの水浴》。これ位にしておこう、際限がなくなりそうだから。咽喉が乾いたので、館内のエスプレッソ・バーで一服。
四時近くなった。暗くなる前に美術館を出たら、すぐ前のトラファルガー広場が騒然としている。学生たちが屯していて、スローガンを叫びながら盛んに気勢を上げているようだ。何事かと近寄ろうとすると警官に制止される。実に物々しい警戒ぶりで、広場の周辺一帯にはずらり警官隊が配置され、進行方向を指示される。広場に立ち入れないどころか、地下鉄のチャリング・クロス駅にも近づけない有様である。遠目に学生たちを眺めると、手に手にプラカードや横断幕をもち、口々に何かを訴えている。夕刻近くの凍えるような寒空の下、その一郭だけは熱く燃え上がっているような雰囲気だ。久しぶりに学生デモを目にした気がする。
周囲が次第に薄暗くなってきた。この調子だと降り積もった雪はこのまま凍ってしまうだろう。観劇は七時半からなので、その前に軽く夕食を摂っておかないといけない。
セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会の前まで来たので、ここの地下食堂で何か食べておくことにする。聖堂の隣にエレヴェーターが新設されているので、そこから地下のクリプトに降りてみた。二年半前にはまだ工事が完全には終わっていなかったが、今は洒落た売店やブックオフィスができ、クリスマス・グッズ類を綺麗に並べていた。その隣がクリプトである。ちょうど聖堂の真下にあたる場所だ。往時には納骨堂だったとおぼしき天井の低い地下空間で、足元をみると古い墓石が並んでいたりする。それを食堂に改造し、墓石を踏みつけながら食事を摂るというのもゾッとしない習慣だが、そんなことを誰ひとり気にしていないようだ。
前回この食堂で何度か食事にありついた。セルフ・サーヴィスだが温かいメニューが供されるうえ、出来上がった料理が大皿に並んでいるのを見てチョイスできるのも助かるし、待たされる心配もない。時間が気になる観劇の前にはうってつけなのである。安価なのも貧乏旅行者にはありがたい。さほど空腹でもないので、今日は温野菜を色とりどりに取り合わせた Vegitarian Main なるディッシュと、フィルター珈琲だけを所望する。八・七ポンド也。量はたっぷりある。ひとまずこれで充分だろう。
腕時計をみると七時が近い。念のためご不浄を済ませ地上に出ると、すっかり暗くなっているばかりか、途轍もなく寒い。さながら冷凍庫のようで、たちまち体の芯まで凍てついてしまいそう。とてもここが倫敦とは思えない。モスクワかペテルブルグの真冬並みの空気なのだ。露出している顔と手が刺すように痛い。セント・マーティンズ・レインを急ぎ足で歩く。目指すコラシーアムはすぐそばだ。
初めて接する作品なので、到着早々ロビーでプログラムを購入。開場とともに着席して、時間の許す限り精読する。実に読み応えのある内容である。
ここでも
デイヴィッド・ニースが懇切な解説を書いている。"A Composer's Heart" と題して、オペラの作曲者
アレクサンドル・ラスカートフ Aleksandr Raskatov (1953~ )の経歴のあらましと、このグロテスクな新作のロシア歌劇史における位置づけについて、的を射た考察がなされていて裨益するところ大。この論を書くため、わざわざアレクサンドル・イワーシキン教授の教えを乞うたそうだ。
原作である
ミハイル・ブルガーコフの同題の小説は行きの機上でじっくり再読したから大丈夫だろう。プロットもしっかり頭に入っているから安心だ。
配布されたスタッフ・キャスト一覧を書き写しておこう。
犬の心臓 A Dog's Heart
ニ幕十六場(エピローグ附)
作曲/アレクサンドル・ラスカートフ
原作/ミハイル・ブルガーコフ "Собачье сердце" (1925)
台本/チェーザレ・マッツォニス
英訳/マーティン・ピカード
演出/サイモン・マクバーニー
美術/マイケル・レヴァイン
衣裳/クリスティナ・カニンガム
照明/ポール・アンダソン
出演/
プレオブラジェンスキー教授=スティーヴン・ペイジ
助手ボルメンターリ=リー・メルローズ
シャリコフ=ピーター・ホアー
犬シャリク(愉快な声)=アンドルー・ウォッツ
犬シャリク(不愉快な声)=エレーナ・ワシーリエワ
料理女ペトローヴナ=エレーナ・ワシーリエワ
女中ジーナ=ナンシー・アレン・ランディ
シヴォンデル=アラスデア・エリオット ほか
人形操演/
ロビン・ビア、フィン・コールドウェル、ジョシー・ダクスター、マーク・ダウン
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指揮/ギャリー・ウォーカー
イングリッシュ・ナショナル・オペラ管弦楽団・合唱団
(まだ書きかけ)