まだ松が明けないうちから訃報である。
もっとも亡くなったのは一箇月前の昨年12月3日だったのだが、生憎ちょうどその頃は倫敦にいて音信を得ることができなかった。報に接したのはつい先日である。
もっとも亨年百八(!)という長寿を全うしての帰天なのだから、これを悲しむべきではなかろう。むしろその天晴れな人生をこそ寿ぎたい気持ちである。死因は報じられていないが、眠るような大往生だったと信じている。
亡くなったのは
ユーグ・キュエノー Hugues Cuénod (1902~2010)。スイスが生んだ不世出のテノール歌手である。
大向こうを唸らせるような活躍ではないものの、グラインドボーン歌劇場で達者な名脇役として評判をとったほか、近代フランス歌曲を中心に、古楽から20世紀音楽まで幅広いレパートリーを誇った。音楽史的には戦前に
ナディア・ブーランジェ女史の許でモンテヴェルディ復興に係わったほか、戦後間もなくストラヴィンスキーの歌劇『
放蕩者の遍歴』初演(1951)では作曲家の慫慂により競売人セレムを創唱したことが特筆されよう。
エルネスト・アンセルメの信頼も厚く、ラヴェルの『子供と魔法』、ストラヴィンスキー『結婚』『狐』『オイディプス王』の録音に参加したほか、1950年のバッハ年に敢行された
ヘルマン・シェルヘンの記念碑的な「マタイ受難曲」録音でも福音史家として加わっている。
もっとも一般には1970年代に英国のレーベル Nimbus の依頼で吹き込んだ数枚の近代フランス歌曲精華集(デュパルク、フォーレ、ドビュッシー、サティ「ソクラテス」など)が驚くほどの名演だったことで、キュエノーの名を記憶したという向きが多かろう。かく申す小生もそのひとりだった。その平明率直で銀のような美しいディクシオンは、まさにカミーユ・モラーヌと双璧だった。
"Hugues Cuénod: SATIE Socrate, French Song Cycles"
ジャック・ド・メナス:
子供の二通の手紙
シャブリエ:
蝉
小さな家鴨のヴィラネル
薔薇色の豚のパストラル
太った七面鳥のバラード
オネゲル:
「サリュスト・デュ・バルタス」
ルーセル:
サラマンカの学生
プーランク:
C
ギターに寄せて
サティ:
ダフェネオ
ブロンズ像
帽子屋
潜水人形
交響的ドラマ「ソクラテス」
テノール/ユーグ・キュエノー
ピアノ/ジョフリー・パーソンズ
1977、1978年、バーミンガム、ニンバス・ステュディオズ
Nimbus NIM 5027 (1985)
実に節度のある歌いっぷり。声に凛とした気品が漂う。これが七十五歳頃の録音だというのだから吃驚してしまう。Nimbus レーベルはほかにもペルルミュテール、チェルカスキー、ユーラ・ギュレールらの晩年の至芸を記録にとどめた功績が大だが、このキュエノーのフランス近代歌曲アンソロジーも忘れがたい一枚だ。
とりわけ素晴しいのが「
ソクラテス」。サティ一世一代の傑作をキュエノーは端正に、折り目正しく淡々と歌う。それが感動的なのである。
たった一度だが、ユーグ・キュエノーのステージに接したことがある。そのとき彼は既に九十五歳だった。
1997年10月、たまたま美術館の仕事でパリに赴く機内で『ル・モンド』紙に演奏会告知が載っていた。大変な高齢の筈なので「まさか」とわが目を疑ったが、到着した翌日、夕方からはオフだから、とりあえずカンカンポワ小路に
モリエール座なる小劇場を訪ねた。夜九時開演というので七時に着いたのだが、建物に灯も人影もない。客も誰一人並ばない。中止になったのか、記事が誤報だったのか。
八時を回った頃合に、三十代の男性が現れ、扉をがたがた揺する、ドンドン叩く。見るに見かねて「誰もいないようですよ、キュエノーの演奏会は本当にあるのですか?」と尋ねると、彼はちょっと気色ばんで「
勿論あるに決まってるヨ。僕は今日の伴奏ピアニストなんだから!」と宣うたのである。
その言葉どおり、演奏会は定刻きっかりに始まった。あとで知ったのだが、先の男性は
ビリー・エイディという名伴奏家なのであった。プログラムは以下のとおり。
サティ: 交響的ドラマ「ソクラテス」
プーランク: 「仔象ババールのお話」
九十五翁は流石に歌いはせず、「ソクラテス」は弟子筋(?)の
ジャン・ベリアールという歌手に委ねられた(これが凄い名唱だったのを忘れはしない)。
その代わりキュエノーは後半に矍鑠たる足取りで登場して「
ババール」の朗読を受け持ち、軽妙洒脱、音楽にぴたり寄り添いながら語り聞かせたのだ。その美声に陶然と夢心地になる。 とても九十五歳と信じられぬ張りのある声、肌の色も艶やか、背筋もピンと伸びて、せいぜい七十位にしかみえない。奇蹟を目の当たりにした。
そのときの驚愕のお裾分けをしようか。
"Hugues Cuénod chante et récite Francis Poulenc"
プーランク:
「仔象ババールのお話」*
黒人狂詩曲**
ギターに寄せて***
オルクニーズの唄***
ラ・グルヌイエール***
パリ旅行***
矢車菊***
映画の前に***
(インタヴュー)フランシス・プーランクについて****
語り、テノール/ユーグ・キュエノー
ピアノ/ビリー・エイディ*、フランシス・プーランク** ***
ローザンヌ室内管弦楽団員**
聴き手/フランソワ・ユドリー****
1997年4月12、13日、ジュネーヴ、スイス・ロマンド放送局、
エルネスト・アンセルメ・スタジオ、エスパス2*
1953年12月9日、ジュネーヴ、スイス・ロマンド放送局** ***
1997年7月11日、スイス、キュエノー館****
LYS-Dante Productions LYSD 254 (1997)
この「
ババール」はモリエール座で実演を聴いたあの宵の半年前に収録されたもの。大団円を「おしまい! Fin!」と弾むように元気よく締め括るところまで、十三年前のあの宵をまざまざと彷彿とさせる語りである。続くプーランクとの共演の素晴らしさにも言葉を失う。絶対的に持つべきディスク。