いよいよ倫敦で過ごす最後の日が来てしまった。この十日間は長かったようでいて、あっという間だったような気もする。その間のことを順序だてて思い出そうとしても、記憶装置が正常に作動してくれない。さまざまな出来事が折り重なり、降り積もる雪のような塩梅で堆く山をなしてしまって、もう掘り起こすのが難儀である。ちゃんとメモをとっておけばよかったと今更のように思う。気づいたときはもう遅い。
それにしても昨夜の演奏会は感動的だった。これを聴きにわざわざ倫敦までやってきた甲斐があった──寝床のなかであれこれ反芻しながら愚図愚図していたら七時になった。BBC・TVの定時ニュースを点ける。
そろそろ起きなければいけない。今日の午後は少し遠出をする。戻ってくるのは深夜になるかもしれないので、明日朝の出発に備えて、午前中ざっと荷造りをしておくほうが賢明だろう。
ニュースの天気予報を観る。大丈夫、概ね良好、雨になることはなさそうだ。さっと顔を洗い、着替えて地上階へ降りる。小旅行に備えて、朝食はたっぷり「英国式」で摂っておいたほうが賢明だろう。一日一回の贅沢である。
いつもの喫煙所でいつものの一服を済ませたあと部屋に戻って、枕元の卓上に堆くフルヘッヘンドした荷物の山を見上げてふうと溜息をつく。参ったなあ。
分厚いディアギレフ展カタログが二冊。ゴーギャンとセザンヌのカタログ。いつの間にか書籍も十冊近くになっている。数枚のCDとDVD。あとは演奏会やオペラ、バレエのプログラム類。それから(これが莫迦にならないのだが)夥しい数の演奏会や展覧会のリーフレット、チラシの類。持参した旅行鞄には収まらないので、一昨日手に入れたフォイルズの布バッグに詰めてみるが、とても入りきる分量ではなさそうだ。
「
別送便」──誰かがそう耳元で密かに囁いた。東京の梅田英喜君の声らしい。今回もそうするほかなさそうだ。搭乗手荷物とは別に、予め旅先から荷物を送るのである。この智慧も最初の海外旅行で「達人」梅田君から授かったものだ。
いつもならピカデリー・サーカスのクロネコヤマトまで持参するのだが、幸いなことに近所のラッセル・スクエア界隈には小さな郵便局がある。毎日の往還で気づいてはいたが、ここから小包にして発送してしまえば身軽になれる。これで行こう。
そうと決まったら善は急げ、早速に出向いてみた。窓口の対応はとても親切、申請用紙を手渡され、手順を教えてくれたばかりか、梱包用の段ボール箱まで販売している。至れり尽くせりなのである。
梱包用テープは日本から持参してあったが、ちょっと分量が足りないので、いつものインド人の店で更に買い足す。
ホテルの部屋で指示書を見ながら段ボール箱を組み立てる。念のため角と稜線にテープでしっかり補強する。これなら乱暴に扱われても大丈夫だ。
あとはせっせと箱詰め作業。特に急ぐ理由のない荷物はここに放り込んでしまう。二冊あるディアギレフのうちの一冊、ゴーギャンとセザンヌ、その他の書籍類を入れたらもうかなりの分量である。隙間にリーフレット類を詰め込んだら満杯になった。CDはケースが脆弱で簡単に割れてしまう。手荷物で持ち帰ることにする。
上蓋をテープでしっかり封じ、抱え上げて運び出す。結構な重さだ。
宛先と内容明細を記した用紙とともに局の窓口に差し出すと、秤で軽量。十キロ近くある。送料も莫迦にならない額であるが(正確な金額は失念したが一万円近い…)、背に腹は代えられないと泣く泣く支払う。これまでの節約が一気に帳消しになってしまった勘定だがやむを得ない。これで身軽になれるのだ。
そろそろ昼飯時であるが、まずはバスで現地に赴いてからにしよう。昨日に引き続き今夕もノエル・マン先生を偲ぶ催しが
ゴールドスミス・カレッジである。倫敦都心からはかなり東に離れた場所なので、とにかく移動してしまうのが先決だろう。昼食を摂るのはそれからでいいだろう。
今日も青空が覗いている。こういう日なので郊外へはバスで行こう。路線図に拠ればまずウォータルー橋まで行く。そこで「171」番か「172」番のバスに乗り換えれば大学のすぐ近くまで直行できる筈だ。一時間もあれば着けるだろう。
ところがそうは問屋が卸さないのが今回の倫敦なのである。
ラッセル・スクエアでいつもの「188」番のバスを待つが、待てど暮らせど来やしない。五分、十分、二十分…。そもそもバスが一台も来ないのだ。来てもすべて回送になってしまう。なんともはや!
仕方がないので同じラッセル・スクエアの別のバス停に移動し、やはりウォータールー橋に行ける「59」「68」あるいは「168」番のバスを待ってみるのだが、これまた駄目。どうもストライキか何かなのだ。
これは困った。こうなったら別の手段を考えねばなるまい。二年半前に習い覚えた道筋、すなわち地下鉄の「ジュビリー・ライン」で
カナダ・ウォーター駅まで行き、そこからバスに乗れば大学のあるニュー・クロスまで行ける。そうと決まったら地下鉄だ。まずは最寄りのラッセル・スクエア駅へ赴こう。
そこからはまずピカデリー・ラインでグリーン・パーク駅まで行って、そこでジュビリー・ラインに乗り換える。六駅先がカナダ・ウォーターである。簡単な道筋だ。
銀灰色に輝く車両に乗り込んで程なく、ウォータールー駅を過ぎたあたりから途中駅が歴然と綺麗になる。ここから東は十年ほど前に延長された新線なのである。乗換駅のカナダ・ウォーターも倫敦の地下鉄らしからぬ新しさだ。広々した降車ホーム(
→こんな眺め)から見上げると真新しい円蓋が架かっている(
→こんな眺め)。ちょっと横浜の地下鉄駅に雰囲気が似ているかも。
ここで地上に出てバスに乗り換えようと思ったら、なんと新しく「イースト・ロンドン・ライン」の新駅ができているではないか!
手元の路線図(二年半前の訪倫時に貰ったもの)ではこの東倫敦線は「工事中につき使用不能、代替バス運行中」と註記されているのだが、どうやら最近になって工事が終わって開通したものらしい(あとで wikipedia で調べたら、この四月に運行開始になった由)。なので地上に出ずにエスカレーターで早速そのホームに赴くと、出来たてほやほや、ピカピカの新駅である(
→こんな眺め)。
このイースト・ロンドン・ラインは「アンダーグラウンド(地下鉄)」ではなく、「オーヴァーグラウンド」と銘打たれている。「地上鉄」とでもいったところか(地下鉄とは別経営らしい)。駅ホームの路線図で確かめると、ここから二つ先は
ニュー・クロス駅。すなわちゴールドスミス・カレッジの最寄駅なのだ。大丈夫これで辿りつけるわい。
程なく到着した列車に乗り込む。銀色に黄色い線が目印の真新しい車両である。ところがホームから滑り出した途端、周囲の眺めはがらり一変し、なんとも古色蒼然たる鄙びた線路風景になる。それも当然だ。この線そのものは19世紀に遡る大昔の私鉄路線をそのまま継承したものだからだ。
(まだ書きかけ)