なんだか夢を見ていたらしい。それもひどく緊張を強いられる夢だったのだが、目覚めた途端に忘れてしまう。いきなり目が醒めて枕元の時計を見る。六時だ、起きなくちゃ。今日はいよいよその当日。ぼんやりしてはいられないぞ。
TVを点けると相も変わらぬ交通麻痺の話題に混じって、いきなり
ジョン・レノンの住んだNYのアパートメントが画面に映し出される。そうだ、今日は彼の命日、それも歿後三十年目の当日なのである。光陰矢の如しだとつくづく思う。
シャワーを浴びてすっきりする。洗顔も髭剃りもいつもより入念に。今日は昼にひとつ、夜にもうひとつ、重大なイヴェントがある。寝惚け顔で出向く訳にはいかないのだ。そう思うともう居ても立ってもいられない。七時になったのでリフトで下階まで降り、食前の一服で頭をすっきり覚醒させる。今朝も凍えるように寒い。朝食はコンチネンタル方式で軽く済ませる。のんびり食べてなぞいられない!
九時半きっかりにホテルを出発。いつもどおりガワー・ストリートまで出て、そこから「24」番のバスで三つ目のチャリング・クロス・ロードで下車。横断歩道を渡って少し戻ると書肆
フォイルズ Foyles に赴く。これまでの倫敦滞在はたいがいトッテナム・コート・ロード駅近くのホテルに投宿していたから、この書店とは指呼の距離。何度この老舗に足を運んだことか。90年代には随分と老朽化して、店内も古色蒼然、鰻の寝床のように入り組んでいた。その代わり、売れ残った古い書籍が人知れず書棚に残っていて、あれやこれや珍しい書目を手にしたものだ(モスクワ児童劇場の創設者ナタリヤ・サーツの自叙伝などもここで見つけた)。
その後、店の真向かいに新興の書肆ボーダーズが進出した。居心地のよいスターバックスのカフェや充実したCDショップもある瀟洒な店構えのボーダーズに比べ、古めかしいフォイルズはちょっと影が薄い存在になってしまった──前回はそう感じたのであるが、二年半ぶりに訪れて、驚いたことにボーダーズは早々と撤退してしまい(昨年暮のことという)、影も形もなくなっていた(跡地にはお定まりの簡便なレストランが入った)。
そういう次第で熾烈な競争に勝ち残った(?)フォイルズ書店はすっかり改装され綺麗に模様替えし、ボーダーズに勝るとも劣らぬ洒落た店として不死鳥の如く再生した。まことにご同慶の至りである。
地下を含め五フロアを擁する巨大書店であるフォイルズを隅々まで歩き廻るのは難儀である。先ずは地上階(ここの表示だと「フロア0」)で演劇・映画コーナーをざっと眺める。念のため
クリフォード・オデッツの戯曲を探すが、ここにもやっぱり『カントリー・ガール(=喝采)』はない。諦めるしかなさそうだ。ついでに
ケン・ラッセル監督がらみの新刊書はないものかと目を凝らすが、これもない(ある訳ないか)。
三階(「フロア2」)の美術書売り場にもこれはという書目は見当たらず(ホッと安堵した次第)、今度は地下(「フロア-1」)の音楽書のコーナーへ。
流石にここは宝の山だった。買ってはいけない、いけないと念じつつも、次の二冊を手に取らずにはいられなかった。
Simon Morrison (ed.):
Sergey Prokofiev and His World
Princeton University Press
2008
Richard Taruskin:
On Russian Music
University of California Press
2009
いずれも「これまで架蔵しなかったのが恥ずかしい」ほどの必読文献なのであるが、現物を手にして目次に目を通すや一層その恥ずかしさが募る。これらは紛れもなくわが必携の論集なのであった。
このほかモンテヴェルディ関連の面白そうな書物があったのだが、このあたりは専門家に尋ねてみないと甲乙がどうにもつけがたい。それに恐ろしく嵩張るハードカヴァーなので購入は見合わせる。
同じフロアにはささやかながらクラシカルCDの平棚もあったので少しだけ物色。思えば十日近いこの滞在中、CD棚を眺めるのはこれが初めてなのである。ここでもマーク・エルダー&ハレ管弦楽団のドビュッシーやら、V&Aの展覧会に因んだ二枚組 "Diaghilev and the Golden Age of the Ballets Russes 1909-1929" (展覧会とまるきり同名である)やらをレジに運んだ。
腕時計を覗くと疾うに十一時半を回っている。うかうかしてはいられない。すぐにフォイルズを辞去し、チャリング・クロス・ロードをレスター・スクエア方向に歩く。正午きっかりに大切なアポイントメントがある。待ち合わせ場所はナショナル・レール(旧国鉄)の
チャリング・クロス駅のコンコース。ここから徒歩で十分とかかるまい。そうはわかっているのだが、遅刻してはならじと心は逸り、急ぎ足になる。
セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会の脇を抜けて近道し、ストランド街の信号を渡ってチャリング・クロスの駅舎に小走りに駆け込む。待ち合わせ場所はコンコースの大時計の正面。時計は十二時十分前を示している。うまく落ち合えるだろうか。何しろ初対面同士なのである。
時計の真正面に目鼻立ちのくっきりした黒髪の女性が佇んでいる。間違いあるまい、声をかけた。「
ナオミ・マツモトさんですね?」──慌てたせいで、日英チャンポンの言い回しになってしまう。
ナオミ・マツモトこと
松本直美さんは倫敦のゴールドスミス・カレッジで音楽学を講じる先生である。ご専門はモンテヴェルディをはじめとする17世紀のオペラと19世紀のベルカント・オペラ。王政復古期イギリス劇音楽の変遷と受容、オペラにおける「狂乱の場」の起源と伝統について研究されている碩学である。
そんな専門家とどうして知り合いになったかといえば、実はそこには
プロコフィエフが一枚噛んでいる。
ちょうど今から三年前、ひょんな偶然から小生はゴールドスミス・カレッジにあるプロコフィエフ財団の
ノエル・マン先生からの突然の依頼で、1918年夏のプロコフィエフの日本滞在に関する論考を研究誌 "Three Oranges" に寄稿することになったのだが、松本さんも同じ雑誌に大田黒元雄のプロコフィエフへのインタヴューの英訳者として係わっておられたのである。
その松本さんから突然このブログに鍵コメントが届いたのは昨年八月だったと記憶する。ノエル・マン先生の体調が思わしくなく、重篤な病に冒されているらしい、励ましのメールを差し上げたらどうか、という内容であった。結局ノエル先生の病は悪化の一途を辿り、今年の4月23日(奇しくもプロコフィエフの誕生日だった)に亡くなられた。その悲報の第一報を届けて下さったのも松本さんなのである。
そうした不思議な縁で知遇を得た小生であるが、これまでメールの交換と、ブログのコメント欄でのやりとりだけの間柄であるから、お目にかかってもそんな偉い先生との間に果たして会話が成り立つのか、当方は単なるディレッタントなので、敷居の高さを意識せざるを得ないのである。朝から緊張で体がこわばる所以である。
松本さんに先導されて駅舎を出て、ストランド街を横切りコヴェント・ガーデンの方角に歩き出す。初対面なので、先ずは時候の挨拶から。「出発前にメールで知らせて下さったので覚悟してはいたのですが、それにしても倫敦の寒さは想像以上でした」と切り出すと、「私はこの街に来て十六年になるのですけど、十二月がこんなに寒かったのは初めて。明らかに異常です」と答えが返ってきた。先日の雪はこのあたりでは流石にもう殆ど消えたけれど、「私の住む郊外では十センチ以上も積もってしまい、しばらく電車もストップして酷い目に遭いました」。
どこをどう歩いたのか、コヴェント・ガーデン界隈の入り組んだ街路を裏手に入ったあたりに小ぢんまりとしたその店はあった。松本さんが前もって予約を入れておいて下さったのだ。地中海料理のレストランだという。予約した十二時半よりもかなり早く着いてしまったのだが、店員は「どうぞ、お席に着いて」と慇懃である。
「お忙しいなか、わざわざ小生のために時間を割いて下さったことを感謝します」と申し上げると、「今日もこのあと三時過ぎから別の学校で教えなければなりません」とのこと。「師走」という言葉がふと頭に浮かぶ。「忙しくて演奏会にもなかなか足を運ぶ時間がなくて…。この間、招かれてグラインドボーン歌劇場で 《チェネレントラ》 を観たのが久し振りだった程で」と述懐する。
十二月ということでクリスマス・メニューがある。七面鳥料理だそうな。松本さんに倣って小生もそれを註文してみる。
まずは白ワインで乾杯。このあたりから小生の緊張もほぐれ、初対面とは思えぬ気安さで会話できたのは、松本さんの率直で飾らないお人柄の故だろう。
店員が紙で作った細長い筒状のものを卓に置いた。「ああ、これはクリスマス・クラッカー。ふたりでそれぞれ両端を持って引っ張ると、千切れるとき大きな音がします。なかに景品が入っていますよ」とのこと。早速やってみると、パン、と小さな音がして、なかから小さな玩具の櫛と、お御籤のような紙片が転がり出た。教訓が書いてあるというので読んでみようとするが、字が小さくて読めない。どれどれとばかりに、ふたり同時に老眼鏡を取り出したので苦笑してしまう。松本さんは小生よりもひと回りはお若いに違いないが、それでも小さな字が判読し辛くなってきたとのことだ。
程なくローストした七面鳥が運ばれてくる。早速これを賞味してみると、程良く薄味が施されていて旨い。倫敦で初めて口にした美味しい料理である。
そのあと松本さんはこれまでの歩みをざっと回顧された。名古屋の音楽大学で声楽を学ばれ、そのあと社会人生活を経験されたあと、更に歌に磨きをかけようと倫敦に留学された。当初は歌手を目指されたのだが、バロック音楽に惹かれるうち、いつしか研究の面白さに目覚め、オペラ史の専門家としての道を歩まれたのだという。「日本の大学では卒業試験は実技だけだったので、こちらに来て初めて論文の書き方を学びました」とのこと。それが今では気鋭の音楽史家として国際的に活躍されているのだから、人生は生きてみないとわからない。来年には彼女の校訂譜によるバロック・オペラの数百年ぶりの蘇演が日本でも予定されているという。
なんとタフな生き方なのだろう。ほとほと感嘆した小生が思わず、「松本さんは本当に強いお方だ」と呟くと、彼女は少し気色ばんで「それは違います」と言下に否定された。「東洋から来た留学生たちは、ちょっと成績が悪いと、自分は外国人だからできなくても当然と言い訳する。それでは駄目だと諭すと、すぐ『先生はお強いから…』と逃げ口上を口にする」と憤懣やるかたないご様子。要するに覚悟が足りないということだろう。外国まで来たからには、しっかりやらねば意味がないのである。
食後のデザートとして、松本さんはティラミス、小生はクリスマス・プディングを所望。それにエスプレッソ。クリスマス・プディングは予想に反して、なんというか、ねっとりしたパウンドケーキふうの食感。濃い褐色をしている。だがこれも美味しかった。
二時間はあっという間に過ぎた。これから授業だという松本さんと再びチャリング・クロス界隈まで戻り、再会を約すと、彼女は地下鉄駅へと足早に去っていった。
どういおうか、懦夫をして起たしむ、とでもいえばいいのだろうか。天晴れな生き方に目を瞠る思いだ。励まされたのか、打ちのめされたのか、判然としないままに茫然とトラファルガー広場を廻り歩いて、再度(これで四度目か)ナショナル・ギャラリーに歩を進める。今回はこれでもう最後だろう。
ファン・エイクの三点と、フェルメールの二点と、ベラスケスの 《鏡のヴィーナス》、それにレオナルドのカルトン。これだけを暫く眺めて見納めとした。いざ、さらば。
そのあとレスター・スクエア駅から地下鉄でラッセル・スクエア駅へ。態勢を立て直すべく、一旦ホテルに戻ることにした。目覚ましをかけて眠ろうとするが、昂奮が体内に残っていて一向に寝られない。
六時になったので再び出発。ラッセル・スクエアからいつもの路線バスでウォータールー橋経由、サウスバンクへ向かう。
赴く先はクィーン・エリザベス・ホール(QEH)。再三訪れているロイヤル・フェスティヴァル・ホール(RFH)に隣接した建物に、一昨日出掛けたパーセル・ルーム(PR)と同居する中ホールである。このQEHではずっと以前(1993年の初訪倫の折り)、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮でモンテヴェルディの 《
ポッペアの戴冠》 を見聞したことがある。程よい大きさの、とても響きのよい会場だと記憶する。
ここでこれから聴く演奏会は、今度の倫敦訪問中で最も肝腎な催しである。これがあるからこそ、わざわざ遠方から旅してきたといってよい。題して「
ノエル・マン追悼演奏会 Noëlle Mann Memorial Concert」。
ノエル・マン先生はロシア音楽の研究者として永くゴールドスミス・カレッジで教壇に立つ傍ら、プロコフィエフ未亡人リーナの遺志を継いで同カレッジに「
プロコフィエフ・アーカイヴ」を設立、広く研究者に公開するとともに、2001年には研究誌 "Three Oranges" を創刊し、2003年の作曲家歿後五十年記念イヴェントなどの開催に尽くしてきた。今日のプロコフィエフ研究の礎を築いた人といってよい。
小生にとってはプロコフィエフ来日時の動静について小論を書くよう勧めて下さった恩人であり、その論考が研究誌に載った2008年5月、訪英してゴールドスミス校内でお目にかかったのが最初で最後の邂逅となってしまった。今年四月にノエル先生が急逝された折り、葬儀への参列が叶わなかった者として、今日の追悼演奏会は彼女にお別れを告げる千載一遇の機会となるだろう。
少し早目に着いたので、開場前のロビーにてレモネードで喉を潤す。
(まだ書きかけ)