今朝も六時前に目が覚めてしまった。勿論まだ外は真っ暗だ。早く起きる必要はないのに目覚めてしまうのは、まだ体が英国時間に馴染んでいないためだろう。今日からいよいよ十二月が始まる。
昨日の展覧会とオペラの昂奮が一夜明けても体にじんわり残っている。まだ滞在初日だったというのに、体験の濃密さはどうだ。こんなことが十日間も繰り返されたら心身がどうにかなってしまいそうだ。
BBC・TVのニュースは昨日に引き続き、英国全土を襲った猛寒波の話題でもちきりだ。北のスコットランドではあらゆる交通手段が麻痺しているようだし、倫敦でもガトウィックとスタンステッドの空港では離着陸ができなくなっているという。十二月に英国がこれほどの大雪に見舞われるのは二十年来なかったそうだ。
七時を回ったのでリフトで地上階に降り、まずは正面扉を出て玄関脇の喫煙所に。昨朝に勝るとも劣らぬ寒さである。chilly cold とはこのことだ。
すでに先客に中年婦人ふたりがおり、煙草をふかしながら何事か小声で話している。どうやらイタリア語らしいので、「
ぶおん・じょるの! トテモサムイデスネ。ワタシハじゃっぽーねカラキマシタ。いたりあノカタナノデスカ?」とたどたどしい口調で切りだすと、にっこり微笑んで、「たしかに寒いわね、吃驚したわ」「私たちはトスカーナのルッカという街から来たの。ピサの近くよ」と返してきた。「
いたりあデモユキハフルノデスカ?」と尋ねると、「北のほうはそうだけど、トスカーナではほとんど雪は降らないわ。十二月には全然」とのこと。イギリスに来たのはこれが二度目だそうだが、前回は夏だったのでとても同じ街とは思えない、とも。全くもって同感だ。
気さくなイタリア女性たちともっと会話していたかったのだが、凍えてしまいそうなので軽く会釈して辞去。そのままロビーに戻り、通路を通って奥の食堂へ。
係の老人に食事券を示すと「今日はどうする?」と尋ねられ、ついうっかり「英国風朝食で」と答えてしまう。いやはや、倹約第一主義はどこへ行ってしまったのか?
またしても並べられた全品目をたらふく飲み食いしてしまったので部屋に戻って暫く小休止。八時を回ってもまだ窓の外はまだ薄暗い。
さあ今日はどこを回ろうか。昨日はちょっと張り切り過ぎ、欲張って雪のなかをあちこち移動しすぎた憾みがある。どうせ急ぐ旅ではない。まだ日程はたっぷりある。今日は一箇所にじっくり腰を据え、時間をかけて鑑賞してみようか。
そうだ、今日こそはサウス・ケンジントンの
ヴィクトリア&アルバート美術館に出掛けよう。ここで開催中の「
ディアギレフ展」を心して観る。これこそ今回の訪問の最も肝要な目的なのである。だが、その前にテムズ河畔のサウスバンクに立ち寄って、ボックスオフィスで前売券を手にしておきたい。そもそも今夕ここで聴く予定の演奏会すら切符が未入手なのだ。
昨日より少し遅く、十時近くなってホテルを出発、まずは近所の
ラッセル・スクエアのバス停に赴き、サウスバンクまで行けそうな路線を探す。おお、あるではないか! 「59」「68」「168」「188」番のバスがいずれもウォータールー橋を通過する。この橋の停留所で下車すればそこから
サウスバンクは指呼の距離、というか、そこはそのままサウスバンク芸術センターへの入口なのである。
それにしても寒い。バス停から少し離れた片隅でこっそり煙草に火を灯して待つ。目の前のスクエアの木立も地面も雪で真っ白だ。六、七分ほどで「188」番のバスが到着。「ノース・グリニッジ行き」──ということは、このバスで郊外のゴールドスミス・カレッジのすぐ近くまで行けるはずだ。いずれ滞在中また利用することになるだろう。ラッセル・スクエアからの始発なので、真っ先に乗り組んでオイスター・カードで支払いを済ますとそのまま階段を二階に駆け上がり、先頭の座席を確保。ここからの街路の眺めはなんとも最高なのである。
ラッセル・スクエアを出発したバスは小さな飲食店の犇めきあうサウサンプトン・ロウを一路南下する。地下鉄ホルボーン駅を過ぎると道路はキングズウェイと名を変え、周囲は繁華なビジネス街に姿を変える。舗道には至るところ雪が残り、道行く人々も足取りが心なしか慎重だ。やがてバスは突き当たりを左折し、オルドウィッチと呼ばれる半月状に湾曲した道路を経由してテムズ川沿いのストランド街に入る。左手に
キングズ・カレッジ・ロンドンの建物が大きく聳え、窓にフローレンス・ナイティンゲール、ジェイムズ・マックスウェル、モーリス・ウィルキンズら同校に係わった錚々たる人物の肖像写真が並ぶのがみえる。ウィルキンズの隣には早世したロザリンド・フランクリンの写真も掲げてあるのは不遇だった彼女への罪滅ぼしだろうか。この大学を過ぎるとバスはサマセット・ハウス(ここに
コートールド美術研究所がある。いずれ行こう)前を通過して程なく左折するとすぐ、テムズに架かる大きな橋に差しかかる。目指す
ウォータールー橋だ。慌てて座席から立ち上がり、降車釦を押すと、急ぎ足で階段を駆け降りる。
橋の中ほどの停留所に降り立つと外気が身を切るように冷たい。むしろ痛いほどだ。小さな階段を伝って川沿いの散歩道まで下ると川面を渡る風の冷たさがいっそう身に沁みる。この寒さなので行きかう人影はまばらだ。英国映画研究所の前の古本の露店も店をたたんでいる。
とても耐えられないので早々に
ロイヤル・フェスティヴァル・ホール(RFH)の建物に駆け込み一息つく。この季節に河岸のそぞろ歩きなどもってのほかだ。
早速ここのボックスオフィスに向かい、以下のような陣容のチケットをまとめて入手する。窓口の若者の対応が陽気でフレンドリーなのが嬉しい。
12月1日(水) RFH ユロフスキ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
12月4日(土) RFH ユロフスキ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
12月6日(月) パーセル・ルーム(PR) ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏
12月7日(火) RFH ネルソンス指揮 フィルハーモニア管弦楽団
12月8日(水) クィーン・エリザベス・ホール(QEH) ノエル・マン追悼演奏会サウスバンクには大(RFH)、中(QEH)、小(PR)の三つのクラシカル専用ホールがあるのだが、期せずして今回はすべてに足を運ぶことになる。パーセル・ルームはたぶん初めてだと思う。
いつもだったらここで "The best seat, please!" と言い放つのだが、今回は倹約旅行なのでオーケストラ演奏会はすべて慎ましく二階席からの鑑賞だ。それで十六~十八ポンド(二千~二千五百円)なのだから安いものだ。いちばん値が張ったのは8日の二十五ポンド。まあ今回の来訪の最大の目的がこの演奏会なのだから少々の奮発もやむを得まい(この日のチケットだけは日本からネットで予約した)。
この界隈には二年半前の来訪時にも足を運び、賑やかに様変わりしているのに吃驚したものだが、今回再訪して驚いたのはCDショップが忽然と姿を消してしまったこと。小さい店ながら充実した品揃えだったので残念。そもそもクラシカル音楽の殿堂から店舗が撤退してしまうほど現今のレコード産業は衰退してしまったということか、いずれにせよショックである。跡地はレストランになっていた。
さあ、主要な演奏会チケットが手に入ったのでサウスバンクに用事はない。次なる訪問地へと移動すべくハンガーフォード橋でテムズ川を対岸に徒歩で渡ったのであるが、川風の寒いことといったら筆舌に尽くしがたい。眺望を愉しむ暇もなく足早に渡り終えて地下鉄の
エンバンクメント駅に駆け込む。ここからディストリクト・ライン(あるいはサークル・ライン)で五駅行けば目指すサウス・ケンジントン駅である。
サウス・ケンジントン駅はなんだか薄暗くて陰鬱なところだ。寒々しい地下通路を延々と歩かされ、地上に出ると大々的な道路工事の最中で目的地のヴィクトリア&アルバート美術館になかなか辿りつけない。建物は疾うに見えているのだが、道路を横断できずに迂回させられたうえ、巨大な美術館の入口を捜すのに一苦労。その間に体はすっかり冷え切ってしまった。館内に入るや、まず生理的欲求を満たす。
くだんの「ディアギレフ展」は正確には「
ディアギレフとバレエ・リュスの黄金時代 1909-1929 (DIAGHILEV and the Golden Age of the Ballets Russes 1909-1929)」という。そのポスターは既に倫敦市中のあちこちで何度となく見かけていた(
→これ、
→これ)。この演目はミヨー音楽、コクトー台本、シャネル衣裳による『
青列車』(1924)だろう。なかなか渋いセレクションだ。
巨大な館内をさんざん歩かされ漸く会場に辿り着いたときの感慨はやはり一入である(
→これ)。少し目が潤んだ。なにしろ千葉くんだりから遙々やって来たのだから。
展示は三室に分たれ、全体は導入部を含め七つのセクションからなる。すなわち、
序章
1. 第一期 1909~14年
2. ニジンスキー 自然の威力
3. バレエ創造
4. 戦時期
5.1920年代のバレエ・リュス
6.遺産バレエ・リュスが存続した二十年を時系列に辿るオーソドックスな構成である。
いきなり皇帝ニコライ二世の戴冠式の記録画や日露戦争の錦絵で始まる「序章」がちょっと意表を突いている。要は時代背景を示そうというのだろう。続いてディアギレフの「バレエ・リュス以前」すなわち雑誌『芸術世界』編集や、パリ装飾美術館での「ロシア美術展」開催、さらにはロイ・フラーやイザドラ・ダンカンら先行舞踊家の動向が略述されるのだが、このあたりの展示はいかにも歴史の上っ面を撫でただけの印象なのが残念。ただし投射映像で1909年撮影という
タマーラ・カルサーヴィナの動く映像(パリで収録されたらしい「松明の踊り」)が観られたのは収穫だった。
ここからあとはバレエ・リュスの歩みを年次を辿りながら演目を紹介していく常識的な行き方である。ただし昨日観た大英図書館の水際立った展示に較べると、この美術館の空間設営は詰めが甘く感じられる。全体が統御できず、ごちゃついた感じが否めない。とはいえ、バレエ・リュス関連資料の宝庫であるヴィクトリア&アルバートの威力は凄まじい。とりわけ舞台衣裳の現物については五百という他の追随を許さぬ点数を収蔵するだけあって、そのなかから七十余点を選り抜いたマネキン展示が悪かろう筈がない。圧倒的とはまさにこのことだ(
→これ)。
殊のほか心躍る一郭がある(
→これ)。左から『ジゼル』(1910)のアルブレヒト王子、『饗宴』(1909)の「鳥と王子のパ・ド・ドゥー」の王子、同じ役柄のための別ヴァージョンの衣裳(1914)、いずれもニジンスキーの役柄のために誂えられたものだ。
誰しもが眩惑させられるのは『春の祭典』(1913)初演時に用いられた衣裳がずらり並んだ豪勢な展示だろう(
→これ)。これを前にして立ち眩みしない者はおるまい。
そのあとの第三部「バレエ創造」のセクションは、さまざまな資料を通してバレエ・リュス製作の舞台裏に目を向けようとするもの。だから部屋の内装もバックステージふうに設えられている。その意図はよくわかるのだが、肝腎の展示品がいささか纏まりを欠いて少しばかり退屈だ……そう感じながら角を曲がったところで愕然とした。
思いもよらず、いきなり驚きのスペクタクルが待ち構えていたからだ。
フォーキン振付の旧作(1910)をブロニスラワ・ニジンスカが抜本的に手直しした改訂版『火の鳥』(1926)上演のために
ナタリヤ・ゴンチャローワが新作した最終場面のための背景幕がそれだ(
→これ)。イワン皇子の活躍で魔王カシチェイの魔法が解け城の廷臣一同が勢揃いしてめでたしめでたしとなる大団円、壮大なフィナーレの音楽とともにお目見えする舞台装置として用いられた現物である。
この画像ではどうも実物の凄さが伝わらない憾みがある。なにしろ舞台そのものの間口サイズ、縦10×横16メートルもある巨大な幕なのである。展示作業風景をお目にかけたほうがよさそうだ(
→これ)。途轍もない大きさがわかるだろう。
茫然となって口をあんぐり開けたままゴンチャローワの背景幕の裏側へと廻り込んでみると更なる驚愕が待ち受けていた(
→これ)。
1924年5月シャンゼリゼ劇場で幕を開けるバレエ・リュスのパリ公演のため、ディアギレフは観客を仰天させる大仕掛を「盟友」
パブロ・ピカソに依頼した。リチャード・バックルの評伝『ディアギレフ』から引こう(鈴木晶訳、リブロポート刊)。
五月二十六日、初日にやってきた観客の目をまずくらませたのは、ピカソによる素晴らしい緞帳だった。ディアギレフはピカソの許可を得て、彼が大好きだった、二人の巨大な女が浜辺を走っている、グワッシュによる作品を拡大したのだった。細い平行線で女の血色のよい肉体の輪郭を描いた、この小さな作品を拡大することは、舞台装置画家にとって至難の芸であった。しかしシュルヴァシーゼはどんな細部をも完璧に模写したので、ピカソは「線一本ちがっていない」と感想を漏らした。もしピカソ自身が拡大したら、そんなにうまくできなかったにちがいない。すっかり感心したピカソは、幕の左下の隅に、「ディアギレフに捧げる。ピカソ」と署名した。シュルヴァシーゼの仕事の出来を保証したわけである。自分の小さなスケッチが舞台前面いっぱいに拡大されたのを目にすることは(この場合、幅広の白い縁があったとはいえ)、さぞかしピカソを酔わせたことだろう。この幕は、いまだに二十世紀の驚異の一つである。ディアギレフは特別にこの幕のために、オーリックにファンファーレを作曲してもらった。つまり、そういうことだ。バックルの行き届いた記述に敢えてひとつだけ付け加えると、舞台美術画家シュルヴァシーゼが縦七メートル、横八メートルの巨大な画面(布自体は10×11メートル)を仕上げるのに要した時間は一昼夜に満たなかった由。
このピカソ「最大の」作品は1968年オークションで落札され、ヴィクトリア&アルバート美術館(の分館ロンドン演劇博物館)の所蔵に帰していたのだが、一般に公開されるのは本展が初めてとか。大きすぎて展示できなかったのだ。
美術館に入るまでは永年畳まれた状態で保管されていたらしく、縦横に折り目がつき表面の磨滅した状態ではあるが、これは確かに「20世紀の驚異のひとつ」に違いない。ピカソの自署 "Dédié à Diaghilew Picasso 24" もちゃんと読み取れる。
展覧会はここでやっと半分。このあと1917年にピカソ、コクトー、サティが協働した伝説的な『パラード』を嚆矢とするバレエ・リュスの「モダニズム時代」が始まるのだが、鑑賞者たる小生はもう感動と昂奮ではちきれそう。なので今日のところは後半部分は足早に通り過ぎ、後日また捲土重来を期すこととしたい(紹介もその日に回す)。この膨大な展示を一回の訪問で充分に見終えるのは殆ど不可能に近いのだ。
ふらつく足取りで会場から出て売店へ。ここで展覧会カタログを二冊購入(一冊は古書日月堂店主への土産用にしよう)。ほかにもバレエ・リュス関連の書籍類や魅惑的なグッズが色とりどりに並んでいたが、歯をくいしばって購買欲を必死に抑え込む。結局ここで手にしたのは展覧会の絵葉書セットと雑誌『V&A』のディアギレフ特集号、それにバレエ『
鋼鉄の歩み』の復元上演(2005、プリンストン大学)を記録したDVDのみに留めた。
流石に少し空腹を覚えた。喉も渇いた。なにしろホテルを出てからずっと歩きどおしなのだ。美術館のカフェに立ち寄り、エルダーフラワー・プレッセとサンドウィッチの軽食を摂る。ちょっと遅めのランチである。流石にV&Aだけのことはある、古風な内装の落ち着いた空間だった。
いきなり大荷物を抱え込む羽目になった。獲物を置きにいったんホテルに戻ることにしよう。念のためトイレを済ませ館をあとにする。
寒空の下、美術館前のバス停留所で暫く凍えていたら「14」番ウォレン・ストリート行きのバスが来た。ラッセル・スクエアに直行する路線はなさそうなので、これでグージ・ストリートまで行って、あとはホテルまで歩けばいい。
またも二階の先頭席に陣取り、観光バス気分を味わう。ナイツブリッジからピカデリー・サーカス、ケンブリッジ・サーカスへと倫敦の繁華街を縦断していく。さして広くもない街路を巧みに駆け抜けていくダブルデッカーの運転手(今日は女性だった)の腕前はさながら神業級だ。
グージ・ストリートの停留所からわがタヴィストック・ホテルまで歩いて戻る間にも体はすっかり冷え切ってしまう。途中でデモに出向くところなのだろうか、横断幕を持った一群の学生たちと擦れ違った。
(まだ書きかけ)