二年半前に別れを告げた倫敦に思いがけなく再訪することにした。さんざん迷った挙句、今回もそれなりに明確な理由があるので行くことを決断した。
ただし手許不如意につき、万事に切り詰めた旅を心がけた。だからフライトもいつもの英国航空より一回り安価なヴァージン・アトランティック航空を選択。宿も慣れ親しんだトッテナム・コート・ロードの定宿よりかなり安上がりな
ラッセル・スクエアの宿に変更。まあいいのだ。ベッドとバスルームと朝食さえあれば文句はない。
成田を正午過ぎに発った飛行機はシベリア上空を恙なく順調に飛んだ。機上ではかねてから用意したロシア小説を一気に読み切り、あとはイヤホンであれこれ好みの音楽を聴く。初めて乗るヴァージンの機内は空席もあって、それなりに寛げたが、配られた赤い膝掛毛布が使い古しのズタボロで、真紅の繊維がズボンやセーターに無数にこびりついてしまう。全くもって迷惑千万、こんなサーヴィスはいらない。
英国は寒波に見舞われているらしい。倫敦在住の知友から予め聞かされていたので、分厚いコートとセーターを着込み、保温用の下着も買い足してある。モスクワやサンクト・ペテルブルグの冬も経験済なのでよもや心配はあるまい。
少しうとうとしたらアナウンスがあり、着陸態勢に入った。ヒースローには定刻どおり午後三時半着陸。冬枯れた景色だが雪はなく、雲間から西日が漏れている。寒さも案ずるほどのことはなさそう。
到着したターミナル3は特段の変化はなさそう。長い廊下を延々と歩かされ、荷物を回収したあと、売店で早速 "
TimeOut" 誌を購入。倫敦版の「ぴあ」である。ホテルまでの地下鉄の車中これを精読して滞在中の日程を確定しようというわけだ。ポンド両替は既に成田で済ませているので地下鉄乗り場へ直行、ここで二年半前の「
オイスター・カード」(倫敦の「スイカ」「イコカ」の類い)に追加デポジット。とりあえず二十ポンド(三千円弱)を入金。先客のやったとおりに試みたら簡単にできた。これで地下鉄とバスに数日間は乗れる。定額以上は課金されず、乗り放題なのだ。
ここからは楽チンだ。勝手知ったる地下鉄ピカデリー・ラインに乗車、あとはそのまま四十分ほどでラッセル・スクエア駅に到着できる。うまくすれば今夕ENO(イングリッシュ・ナショナル・オペラ)で『ドン・ジョヴァンニ』が観られそうだ。
ところが、である。
『タイムアウト』誌に首っ引きになっていたらアナウンスがあって、この駅で全員降りろという。看板を見ると
アクトン・タウン Acton Town という見知らぬ駅。空港からやっと九駅目の郊外だ。目的地まではまだ十数駅ある。ぶっきらぼうな早口アナウンスからどうにかこうにか聴きとれたのは「
ピカデリー・ラインはここから先が不通だ」という無情の案内である。それ以上の詳しい説明は一切なし。
これは参った。ホテルのあるラッセル・スクエア駅にはピカデリー・ラインで直行できる筈だったのに! 悪いことにここにはこの線でしか行けないので、別の線の別の駅から地図を見い見い歩いていかねばならぬ。やれやれ!
手許の地下鉄路線図と睨めっこして対応策を練る。幸いここアクトン・タウン駅には「ディストリクト・ライン」も走っている。これに乗れば都心まで行ける。テムズ河畔のエンバンクメント駅まで出て、そこから「ノーザン・ライン」に乗り換える。そこから四つ目のグージ・ストリート駅で下車すれば、目的のホテルまでは(たぶん)歩いて十五分くらいで着ける筈だ。それで行こう!
アクトン・タウン駅のホームで待つこと数分。ふと気づくと空は真っ暗、外気がひやり肌に冷たい。これはちょっと冬の札幌ではなかろうか。身に沁みる寒さである。
重たい荷物を引き摺りながらエンバンクメント駅でノーザン・ラインに乗り換える。既に夕方の通勤時間帯に突入し、ホームは乗降客で一杯だ。とほほ、こんな筈ぢゃなかったのに。一本やり過ごしてようやく北行きの車両に乗り込む。もう必死の形相である。なんとか乗り込んでホッと一息つく。
ところが、なのである。
旧知のトッテナム・コート・ロード駅を過ぎた列車はそのまま加速して次のグージ・ストリート駅にも、その次のウォレン・ストリート駅にも停まらない。猛スピードで通過した列車はそのまま次の
ユーストン Euston 駅まで来てやっと停車した。どうして途中の二駅に停まらなかったのか、アナウンスも駅の掲示にも全く事情の説明はなかった。一体全体どうなっているのだ。
あゝ無情、思いもよらず見も知らぬユーストン駅に降ろされて途方に暮れる。地上に出ると凍てつく寒さだ! 初めての駅なので右も左も皆目わからない。
ここからホテルまでタクシー、という手もあるのだが、今回の節約旅行の趣旨にそぐわぬので、心を鎮めて駅構内の地図と睨めっこ。どうやら駅前から真っ直ぐ南下する大通りのその先に
タヴィストック・スクエアなる広場があり、その傍らにわがホテルが位置しているらしい。道筋は(おそらく)至極簡単、こうなったら歩くしかない。
トランクを転がしながら歩くうち、いよいよ寒さが骨身にこたえてきた。露出している顔と手が刺すようにヒリヒリする。さながら冷凍庫にいる感じ。真冬の札幌で真夜中の三時に外に出たことがあるが、それに勝るとも劣らぬ厳しい寒さだ。
ニ十分ほど歩いただろうか。周囲を道路で囲まれた四角い公園(スクエア)が見えた。暗がりなので定かでないが、これが目指すタヴィストック・スクエアなのか。その木立の向こうに九階建の建物のシルエットがぼんやり現れ、看板の灯りが読めた。"TAVISTOCK HOTEL"──間違いない、わが宿舎である。
ドアを開けると小ぢんまりした古風なロビーがある。日本で前もって予約も支払いも済ませてあるので、宿泊カードを記入すると電子キー(カード)と朝食用の札を手渡され、「343号室、朝食は七時から」とだけ告げられた。
そのままリフトで四階へ(現地での「三階」)。部屋はそれなりに広く、改装されていて小奇麗、寝台もダブルである。有難いことにシャワーのみならずバスタブがあったのは何よりだ。ポットで湯が沸かせ、インスタントだが珈琲と紅茶が飲めるのも有難い。ふと腕時計を見ると七時近い。今から飛んで出ればイングリッシュ・ナショナル・オペラの開演時刻にぎりぎり間に合わなくもなさそうだが、すっかり困憊した身には些か過酷すぎよう。しかも最寄りの地下鉄ピカデリー・ラインが不通なのだ。今日はこのままゆっくり寝て、長旅の疲れを癒し時差惚けを直すのが先決であろう。
さっとシャワーを浴び、冬用の下着に着替えたあと、早速に珈琲をいただき人心地つく。冷え切った五臓六腑に温かい液体が沁みわたる。部屋の暖房も申し分ない。
少しだけ元気が出たので、ホテルの周囲を散策してみることにする。まるで不案内な界隈ではないのだが、まだ東西南北がよく飲み込めない。
まずは三分ほど歩いてラッセル・スクエア駅の位置を確認。案の定まだ地下鉄は不通のままらしい。このあたりはブルームズベリーといって百年前は知識人が多く住む一郭だったが、今でもロンドン大学(いくつものカレッジの集合体である)の本部をはじめ、図書館や研究施設、さまざまな名称のカレッジが犇めいている。道行く人々もあらかた世界中から集まった学生たちであるらしい。当てずっぽうに歩いたらUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)の校舎が建ち並ぶ界隈に出た。ここには演劇学科があり劇場もあるらしく、コール・ポーターのミュージカル『エニシング・ゴーズ』の上演告知ポスターが貼られていた。
さらにあてどなく歩くと、見覚えのある広小路に出た。間違いない。これぞ馴染深い
トッテナム・コート・ロードだ。地下鉄のグージ・ストリート駅もすぐ見つかった(先ほど降りようとして果たせなかった駅である)。ホテルからおそらく十分ほどの距離。ここも明日からの外出に利用できそうだ。
それにしても寒い。風はそよとも吹かぬのに、乾燥した外気がどんどん体熱を奪っていくようで、歩き続けるのは甚だ辛い。この方角と見当をつけて進むとタヴィストック・スクエアに出たので、そのままホテルに戻り、同じ建物の地上階に店を構える冴えないカフェに入って、バゲット・サンドイッチとカプッチーノでごく簡便な夕食を摂る。美味くもないが不味くもない。まあこんなものか。
部屋に戻ったのは八時過ぎだろうか。TVを点けるとBBCの天気予報が寒波襲来を告げている。明日は雪になるかもしれないという。
バスタブに熱い湯を張って体を伸ばす。これぞ極楽なり。
湯冷めせぬよう、そのままベッドに潜り込み、『タイムアウト』の頁を繰りながら滞在予定をあれこれ思案しているうちに眠気が襲ってきた。今夜はもう寝てしまおう。