大学五年目に入っても卒論がまるで書けず、学業に嫌気がさした小生は悶々と無為な日々を送るうち、埼玉の自宅に居たたまれなくなった。1975年のことだ。
幸いにも心が通いあう遊び仲間が東京に大勢いた。彼らと連れだって映画館や芝居小屋に足繁く通い、珈琲屋で落ち合っては語らい、夜毎に酒を酌み交わした。やがて衆議一決、会費を出し合い荻窪に小さな部屋を借りて「
荻窪大学」を名乗り、皆の溜まり場とした。ここで寝泊まりできるから、食材や酒を持ち寄り宴会をするも、夜を徹して論ずるも、好き勝手し放題。ますます本物の大学から足が遠のいた。
九月に入ると、いよいよ親との関係が険悪化して口論となった。売り言葉に買い言葉の応酬で、とうとう家を出る仕儀と相成った。
転がり込んだ先は阿佐ヶ谷の下宿。古いアパートの二階で四畳半一間、風呂なし、トイレは共用。一万六千円という格安物件なので文句はいえない。阿佐ヶ谷を選んだ理由は至って単純だ。静かな街で中野や荻窪や吉祥寺より家賃も物価も安く、しかも隣町の荻窪には歩いて十数分で行ける。
仲間の誰かが都の広報の配達のバイトを紹介してくれ、これを週に二、三回やるとどうにか自活の目処もついた。不思議に不安はなかった。まあ若かったのだ。
荻窪には文字どおり日参した。「荻窪大学」に行けば誰かに逢える。逢えば映画や音楽に話の花が咲き、歩いてほんの数分のところに数軒の古本屋と中古レコード屋があった。安い定食屋もあれば美味しい珈琲屋もあった。要するにこの街には若者に必要なすべてが揃っていた。おまけにここには前年に開店したばかりの小さなライヴスポットがあり、生のロックまで堪能できた。「
荻窪ロフト」という名の店である。
歩いていける気安さも手伝って、この店には三日とおかず頻繁に通った。ライヴがあるのは概ね週末の夕方六時半から九時半と決まっていたから、それ以外の時間帯はいつもロックかジャズのLPがスピーカーからひっきりなしに流れていた。
1967年から八年間ほどポップ・ミュージックと疎遠にしていたので、荻窪ロフトでのひとときは小生にとって「失われた時」を取り戻すための貴重な時間だった。四十坪にも満たない穴蔵のような空間で息をひそめるようにして、
ジャニス・ジョプリンの『
チープ・スリルズ』と『
パール』を、
二ール・ヤングの『
アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』と『
ハーヴェスト』と『
今宵この夜』を、
トム・ウェイツの『
クロージング・タイム』と『
土曜日の夜』を、初めて聴いたあの至福の体験。三十五年経った今も忘れることができない。真夜中にここで食べた焼き饂飩の思いがけぬ美味しさとともに。