数年前たまたま荻窪に出向いた折り、南口周辺を少し探索してみた。
道筋は昔そのままなのに、商店街はほとんど代替わりして馴染の店は数軒の古本屋しかない。駅を背に少し歩いてレコード屋の角を左折…と憶えていたのに、目印のレコード屋はもう跡形もない。たしかこの路地だと思うのだが、確信がもてなくなる。その一郭には今も昔もスナックやキャバレーが猥雑に軒を連らねていて、そのどこかだった筈なのだが、もはや記憶のなかでしか実在を確かめられない。
黒く塗られた急な階段を地下一階まで下ると脇に入口があった。扉を開けると店内の壁もまた黒一色。「ロフト」とは名ばかりで、そこは窓のない地下室だった。電灯とスポットライトに仄かに照らされた穴倉めいた空間には音楽が充満していた。木製の手作りテーブルにつくと何故か心が安らぐ。珈琲にするか、それとも水割りを頼むか。ひょろりとした長身にサングラスと帽子が目印のマスター
山ちゃん、カウンター奥でいつも微笑んでいた看板娘の
ミミ。三十五年前がまるで昨日のことみたいだ。
今も手許にその当時の簡易印刷によるB5版チラシが残っている。手書き文字で「
荻窪ロフトコンサートスケジュール」と大書された下に《11月》と《12月》の出演予定が列記される。年号の記載はないが、ラインナップからみて1975年だと推測がつく。11月分を書き写してみようか。
1(土) 鈴木慶一とムーンライダース ゲスト・本多信介とダックスフンド
2(日) 〃 ゲスト・安部静三バンド
7(金) マーブルヘッドメッセンジャー ゲスト・シェリフ
8(土) 〃 ゲスト・ストロベリージャム
9(日) 愛奴(あいど)
15(土) 金子マリとバックスバニー
16(日) めんたんぴん
19(水) アンクルムーニー(JUG MUSIC)
20(木) 鈴木茂とハックルバック/南佳孝
21(金) 大瀧詠一
22(土) 〃
23(日) シュガーベイブ
29(土) ハルヲフオン ゲスト・あんぜんBAND
30(日) 〃 ゲスト・コスモスファクトリー/内田裕也(予)この時代ならではの顔ぶれである。
バックスバニーに
めんたんぴん、鈴木慶一の
ムーンライダースと近田春夫の
ハルヲフオン。この1975年だけ存続した
ハックルバック、翌年春に解散してしまう
シュガーベイブ。彼らは荻窪ロフトの常連だった。タイムマシーンがあるなら戻ってもう一度聴いてみたいものだ。
11月に関していうなら
大瀧詠一の出演がとりわけ目を惹く。事実チラシにもさりげなく「
ライブスポット初登場!!」の字句が書き添えられている。
確かに1972年の
はっぴいえんど解散以降、大瀧が単独でコンサートを催す機会は(今に至るまで)ごく稀だったのだが、二日連続だという。しかもロフトは客席が数十しかない小スペース。色めきたたずにいられようか。
チラシには書いてないが、二日間の出演にはちょっとした趣向が凝らされた。
21日には
鈴木茂とハックルバックをバックに、半年前に出たばかりの鈴木茂の新アルバム『
バンドワゴン』を大瀧がカヴァーする。
22日には大瀧の「ナイアガラ」レーベルからデビューした
シュガーベイブを従えて、大瀧自身のアルバム『
ナイアガラ・ムーン』の収録曲を歌う。
流石に21日は超満員になった。百人は入ったろうか。後方半分程は立ち見だったと思う。狭いロフトの室内は文字どおり汗牛充棟、立錐の余地もないとはこのことだ。おまけに六時半の開演が何故か三時間近くも遅れた。黒い階段に並ばされ何時間も待たされたが、怒り出す人はいなかった。期待がそれほど大きかったのだ。
九時を大きく廻って漸く開演。鈴木茂とハックルバックがまず現れ、懐かしいイントロを奏で出す。「
外はいい天気だよ」。はっぴいえんどのラスト・アルバムに収められた曲だ。そしておもむろに大瀧が登場。割れるような拍手と歓声が巻き起こった。
この日の演目を記しておく。記憶はもはや不確かなので、『All about Niagara』(白夜書房、2001)という重宝な本から引こう。
01. 外はいい天気だよ
02. スノー・エキスプレス(インストルメンタル)
03. 砂の女
04. 100ワットの恋人
05. 銀河ラプソディー
06. 曲目未詳(ハックルバックのインストルメンタル曲)
07. オネスト・アイ・ドゥー(vo=佐藤博)
08. 氷雨月のスケッチ(vo=鈴木茂)
09. 八月の匂い
10. 夕焼け波止場
11. 人力飛行機の夜ご覧のとおり鈴木茂のアルバム『バンドワゴン』の曲がほぼ網羅された。太字で示したのがそれだ(「
微熱少年」とインストの「
ウッドペッカー」を除く全曲)。
これらを日常的に奏していたハックルバックにはなんの造作ないプログラムだろうが、大瀧にとっては、これらを人前で唄うのは空前にして絶後。歌詞カードと首っ引きだったが、歌唱そのものは余裕綽々。「
砂の女」の一節「ウォウ、ウォウウォウ…」のところで思いきりタメをつくり、ちょっとおどけて強調したのがご愛敬だった。
「シゲルの曲はどれも唄いにくいんだよナ」とぼやきながらも、余興の域を遙かに超えた聴きものだった。頻出する高い声域もファルセットで難なくこなしていた。流石に「
夕焼け波止場」のエンディングは苦しくて往生していたが。
実はこのときハックルバックは既に解散が決まっており、数日前の11月16日に正規の「さよならコンサート」(東京厚生年金大ホール)も終えてしまっていた。今日のステージは彼らにとっていわば消化試合だったのだが、むしろリラックスして持てる力を無理なく発揮した好演ぶりが光っていたように思う。
当日ここに居合わせた誰もが感動したのが「
氷雨月のスケッチ」。鈴木茂がはっぴいえんど時代の自作を唄うこと自体が珍しかったのだが、アルバムと同様リフレインの「ねえ、もうやめようよ…」で大瀧が絶妙に絡む。「まるではっぴいえんどそのままぢゃないか」とちょっとホロリとした。
アンコールはアルバムそっくりのアレンジで再現された大瀧の自作「
びんぼう」。会場の盛り上がりは凄まじく、そのまま終われずに再度「
びんぼう」が唄われた。