同じ旋律がつけられた二篇の詩がある。作者はどちらも
ベルトルト・ブレヒトだ。
まずは「
墓廟 Marterl」という詩。
Hier ruht die Jungfrau Johanna Beck.
Als sie starb, war ihre Unschuld schon vorher weg.
Die Männer haben ihr den Rest gegeben,
Drum floh sie aus diesem süßen Leben.
Ruhe sanft.
ここに乙女ヨハンナ・ベックが横たわる。
死んだとき彼女はすでに純潔を失くしていた。
男どもは彼女にとどめを喰らわしたから、
そのせいで彼女はこの甘き生から逃げ去った。
安らかにあれ。
第一次大戦の終結十周年を期してフランクフルト放送局から委嘱された管弦楽つき合唱曲「
ベルリン・レクイエム Das Berliner Requiem」は、さまざまな経緯を経たのち1929年5月22日、ラジオ番組で初演された。「墓廟」はその三曲目に組み込まれた。作曲はもちろん当時の盟友
クルト・ワイルである。
痛ましくも早世した
乙女ヨハンナ・ベックとはいったい何者なのか。
答えはその歌詞のなかではなく、ひとつ前の第二曲目「
溺死した少女のバラード Ballade vom ertrunkenen Mädchen」の題名によって暗示されている。ブレヒトには彼女を誰と名指しできない事情があったのだ。それでは放送検閲を通らないことがわかっていたからである。
このときブレヒトが最初に書いたとされる詩も残されている。題名は「
墓碑 1919年 Grabschrift 1919」という。だが後世のわれわれは(恐らくブレヒト自身もきっとそうだったろう)この歌をずばり「
赤いローザ Die rote Rosa」と呼び慣わす。
Die rote Rosa schon lang verschwand.
Die ist tot, ihr Aufenthaltsort ist unbekannt.
Weil sie den Armen hat die Wahrheit gesaget
Drum haben sie die Reichen aus dem Leben gejaget.
Ruhe sanft, ruhe sanft.
赤いローザは疾うに去ってしまった。
彼女は死んだ、亡骸のありかはわからない。
貧者に真実を告げたものだから、
富者は彼女を死に追いやった。
安らかにあれ、安らかにあれ。
ひとつ前の「溺死した少女のバラード」とこの「赤いローザ」を続けて聴けば誰だってわかる。ウィキペディアの記述を引く。
ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会との関係を保っていたが、選挙に勝つことはできなかった。この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。ローザが『Die Rote Fahne(赤旗)』の巻頭論文で反乱軍に対しリベラルな新聞の編集部を占拠するよう示唆したのと前後して、各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠されたため、エーベルトのSPD政府はフライコール(反革命義勇軍)を出動させて革命軍への弾圧を本格化したのである。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテ(労働者・兵士評議会)も解体されてゆく。ローザとリープクネヒトは1月15日にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。
ブレヒト=ワイルの「赤いローザ」を生で聴いて打ちのめされたことがある。
アンネ・ソフィー・フォン・オッターのリサイタル。2003年5月2日、水戸芸術館でのことだ。この鮮烈な体験については前に詳述したことがある。歌唱そのものの目覚ましさとともに、真後ろの席に
吉田秀和館長ご夫妻が着席されたことも、この日の忘れがたさを倍加させた(
→前方にも後方にも)。
この夕べでフォン・オッター女史は北欧歌曲、シューベルト、マーラーに引き続き、プログラムの最後に「ドイツ歌曲」の系譜に連なるものとしてワイルを数曲歌った。「ナンナの歌」「海賊ジェニー」そして「赤いローザ」がそれである。その凄さといったら! ちょっと言葉にならないほどだ(
→たとえ世界が不条理だったとしても)。
二十日ほど経って「朝日新聞」に吉田翁の批評が載った(5月22日)。その一節を再度ここに引かせていただく。
続くヴァイルの 《ナナの歌》《海賊ジェニー》 などのブレヒト=ヴァイルの曲は《三文オペラ》の初演以来ミルバ、レンパーと伝わる伝統が生まれ、それとわかる様式が受け継がれてきたわけだが、フォン・オッターのは、その伝統を継ぎつつ、異化されている。具体的に言えば、ミルバたちのは強いアクセントでデクラメーションに近く演じたのに対し、フォン・オッターは小さな声で、だが正真正銘の歌として歌うのである。
《三文オペラ》 の批判性は今も効力を失わないようでいて、実は今の時代そのものがひどく変わってしまった。不正卑俗に対する批判と嫌悪はちっとも摩滅していないけれど、かつての両ひじを張って肩に力を入れた偽善ぶり、表現主義的悲愴の気取りは今はむしろ滑稽にしか見えない。しかし、今日これを歌うフォン・オッターには、乾いた鋭さで標的を見定める姿が見える。《ジェニー》 でくりかえされる「五十門の大砲をそなえた船」は前代未聞の威力を誇示する巨大な航空母艦になって、どっかの国の港に横付けにされている。
次に歌われた 《赤いローザ》 は 《ジェニー》 のクレッシェンドだが、五十門の大砲がその何万分の一の小さな爆弾に変身する中で、ローザ・ルクセンブルクの命を狙い、目標の抹殺に正確に成功する。ほとんどpp に終始するような歌いぶりを通して、フォン・オッターは暗殺の正確さの示す残忍さをきき手に伝える。小さな歌の持つ凄い力。
「小さな歌の持つ凄い力」──本当にそうだった。その力に肺腑を抉られたのだ。
今日はその「赤いローザ」を改めて聴いてみたくなった。ただしフォン・オッターはこの歌を録音していない(残念!)らしいので、思い立って「
ベルリン・レクイエム」の全曲を聴くことにする。
クルト・ワイル:
ベルリン・レクイエム
テノール/アレクサンドル・ライター
バス/ペーター・コーイ
フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮
シャペル・ロワイヤル合唱団
アンサンブル・ミュジック・オブリック
1992年5月
harmonia mundi HMC 901422 (1992)
実に素晴しい演奏だ。フランス・バロックのみならず、シュッツ、バッハからベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、マーラーに至る独墺合唱音楽を悉く掌中に収めた
ヘレヴェッヘだけのことはある。ワイルをドイツ音楽史に正しく位置づけた真摯でまっとうな解釈だ。にもかかわらず嗚呼、
ここで聴ける第三曲は「赤いローザ」ではない。まあ致し方なかろう。ウニフェルザール社の刊行譜でもそうなっているのだから。なんとも悔やまれることだ。併録曲は「森の死」とヴァイオリン協奏曲。
クルト・ワイル:
ベルリン・レクイエム
テノール/イヴァン・ゴーセンス
バス/ヤーコプ・ブロッホ・イェスペルセン
ポール・ヒリアー指揮
フランドル放送合唱団
イ・ソリスティ・デル・ヴェント
2007年9月5~7日、ヘフェルレー(ベルギー)、イエスス教会
Glossa GCDSA 922207 (2009)
対するこちらは
ポール・ヒリアーの指揮。彼もまた英国ルネサンス・バロック期の宗教音楽や民衆音楽から出発し、シュッツからラフマニノフまで、更にはペルト、トルミス、クセナキスに至る膨大なレパートリーを誇る。こちらはむしろ抑制の利いた深く沈潜するような追悼音楽としてこのレクイエムを解釈する。合唱の美しさは先のヘレヴェッヘ盤と甲乙つけがたい。嬉しいことにこちらの演奏では故事に基づいて
ちゃんと第三曲に「赤いローザ」が唄われる。やはりこうでなくっちゃね。
併録曲としてワイルの「森の死」、ヒンデミットの「死」、ストラヴィンスキーの「木管八重奏曲」(合唱なし)、ミヨーの「戦争カンタータ」「平和カンタータ」が選ばれている配慮も心憎い。20世紀は死屍累々たる悲惨な時代だったのだ。