Google 検索しようとして今日が
葛飾北斎のニ百五十回目の誕生日(と推定される日)らしいと気づかされる。ロゴにあしらわれた図柄(
→これ)は当然の如く、ザンブリ大波が小舟を翻弄する傑作 《
神奈川沖浪裏》。これっきゃあるまい。
大自然の猛威を象徴するような凄い荒波だが、描かれている「神奈川沖」とは東京湾内、今の地名でいうなら横浜の三溪園の少し沖合あたりだというから驚く。こんな波が起こりようがない場所なのだ。改めて北斎の途轍もないヴィジョン──ありもしないものを、まざまざと現出させる──にただもう唖然とするばかりである。
北斎の 《神奈川沖浪裏》 と聞けば条件反射的に浮かぶ名前は
ドビュッシーだ。なにしろ交響詩(正確には「三つの交響的エスキス」)「
海」(1905)の楽譜を出版するにあたって、版元のデュランにわざわざ手紙を書いて、名指しでこの浮世絵の絵柄を表紙にデザインさせたのだから(
→これ)。
だからといって、ドビュッシーの管弦楽曲が北斎の版画に基づくものだと断ずる証拠は何もないのだが、しばしば造形作品から音楽を紡ぎ出す(ボッティチェッリの絵に想を得たという「春」、アーサー・ラッカムの挿絵による「妖精たちは霊妙な踊り手」と「オンディーヌ」、フローレンス・アプトンの絵本による「ゴリウォグのケイクウォーク」、そしてとりわけ日本製の蒔絵による「金色の魚」)彼のことだから、大波を封じ込めた小さな版画を霊感源のひとつにしていた可能性は否定できない。
そう考えるうえで傍証となりそうな一枚の写真を紹介しよう。
ドビュッシーがロシアの新進作曲家
ストラヴィンスキーと並んで被写体になった、知る人ぞ知る記念写真である(
→これ)。
撮影場所はパリ市内のドビュッシー邸、撮影時は1911年6月。ストラヴィンスキーのバレエ第二作『ペトルーシュカ』がバレエ・リュスのパリ公演で世界初演された直後と推定される(因みにドビュッシーは『ペトルーシュカ』が大のお気に入りだった)。
驚いたことに同じ日、
エリック・サティもその場に居合わせていて、こんな写真が撮られている(
→これ)。研究者たちは口を揃えて、
最初の写真はほかならぬサティが、二枚目はストラヴィンスキーが撮影したものと認定している。なんともはや驚くべき邂逅の歴史的瞬間を捉えたドキュメントなのである。
おっと脱線。一枚目のドビュッシーとストラヴィンスキーのツーショットに話を戻そう。
ご注目いただきたいのは両人の背後の壁。不鮮明なうえ、写真の上端が切れてしまっている。少し拡大してみようか(
→これ)。幾らかましだろうか。
もうおわかりだろう。朧げながら壁に二枚の浮世絵が掛かっているのが見てとれよう。上にあるのが北斎の 《神奈川沖浪裏》 なのは間違いあるまい。彼は自室に掲げるほど、この版画にぞっこんだったのである。下にあるのは
喜多川歌麿、恐らくは「当時全盛美人揃」シリーズの 《
玉屋内志津か》 (
→これ)ではないか。
ドビュッシーは青年時代に付き合っていた女性彫刻家
カミーユ・クローデルの感化で日本美術に開眼したと伝えられるが詳細は不明。この部屋に掲げられている二枚の浮世絵版画の入手径路にしても、その後の行方についても、よくわかっていないらしい。確実なのは彼が20世紀初頭に北斎や歌麿を自室に飾って、しょっちゅう眺めていたという事実だけだ。
それにしてもこの写真を撮影したサティはなんと秀逸なカメラマンだったことだろう! ふたりの背後にジャポニスム風の調度を写し込み、ドビュッシーの管弦楽曲の霊感源(かも知れない)の北斎版画までしっかりフレームに収めたとは! 因みにストラヴィンスキーにも日本趣味があり、二年後には日本の和歌に附曲することになる。
伝説に拠れば、ドビュッシーの「海」の初演を聴いたサティは作曲者に面と向かい、その第一曲「海の夜明けから正午まで」を評して、やや皮肉っぽく、しかも慧眼にも「
11時15分のところが特に気に入ったよ」と述べたという。すべてに目聡かった彼がドビュッシーの部屋の壁高く掲げられた北斎の「海」を見逃すはずはなかったのだ。