これまで訪英を重ねること十回は下らない筈だが、いつもロンドン市内にばかり滞在して、他の土地を訪れた験しがない。われながら情けないのだが、いったん足を踏み入れるや古本漁りと観劇と演奏会通いに忙殺され、そこから一歩も外に出る気がしなくなる。英国好きを自称しながら、知っているのは英京市街のみなのである。
かく似非アングロマニアたる小生ですら、いつか訪れてみたい英国の田舎がある。ひとつは作曲家
エルガーゆかりの地
モールヴァン Malvern の丘。
ケン・ラッセルの撮った伝記映画で白馬に跨った少年エルガーがこの丘を闊歩するシーン(
→LPジャケットにもなった)を観て以来ずっとここに憧れている。
もう一箇所はイングランド北西部ノーフォークの
湖沼地帯 Lake District である。中学生の時分に翻訳が出た
アーサー・ランサム全集で、ここを舞台に少年少女がヨットや山歩きに興ずるのを羨んだ。それ以来の憧れの地である。ただし頭のなかで想像を膨らませすぎたためか、どうしても行かねばとまでは思い詰めなくなった。
その湖沼地帯への遙かなる憧憬を久しぶりに掻きたてたのは、今しがた英国から届いたばかりの一冊の新刊書である。
Roger Wardale
Arthur Ransome: Master Storyteller
Writing the Swallows and Amazons books
Great northern
2010
アーサー・ランサム研究家としてこれまでに幾多の実証的な著作を世に問うてきた
ロジャー・ウォーデイルの新著である。
新聞社特派員としてロシア革命をつぶさに見聞したランサムは、レーニンの謦咳に間近から接し、トロツキー、ラデック、リトヴィノフらと親交を深めた。1920年代には動乱期の中国にも取材するが、やがて意を決してジャーナリズムの世界からきっぱり足を洗い、(トロツキーの秘書だった)ロシア女性エヴゲニヤとともに英国の湖沼地帯に隠棲し、悠々自適の生活に入る。
ここを舞台にヨットとキャンプと冒険と友情を緻密な筆致で謳い上げた少年少女小説『
ツバメ号とアマゾン号』を上梓したのは1930年。爾来ランサムは十七年間にわたり、湖沼地帯に題材を得た連作小説を営々と書き継いだ。この全十二冊からなる「ランサム・サガ」は今も世界中に熱烈な読者をもつ。
(まだ書き出し)