旧友Boe君が明朝いよいよ離日するというので日比谷の高架下の居酒屋「
八起」でささやかな送別の宴。チャーメンもモツ煮込もレバニラ炒めも維納では食べられないとしんみり呟くBoe。ただし年末にまた帰国する由。しばしのお別れだ。
六時半を回って宴たけなわだが小生は先に失礼し、そこから小走りで銀座四丁目へ。七時からの演奏会に辛くも間に合う。先着の家人はさぞかしヤキモキしたろう。
月曜の小倉朗さんの会に続き、今日も王子ホール。奇しくも出演者まで共通する。
波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第6回
「メッツォ・メッツォ」~メゾ・ソプラノとヴィオラ、ピアノによる低い音色の一夜
19:00~ 銀座、王子ホール
メゾソプラノ/波多野睦美
ヴィオラ/川本嘉子*
ピアノ/高橋悠治**
(前半)
レベッカ・クラーク: 三つのアイルランドの歌*
恋人のことはわかってる、時分の行き先はわかってる、バリニュアに行く途中
シューマン:
哀れなペーター (ハイネ)** ~「ロマンスとバラード」第三集
悲しみの美しい揺り籠 (ハイネ)** ~「リーダークライス」作品24
異郷にて、静寂、月の夜 (アイヒェンドルフ)** ~「リーダークライス」作品39
ブラームス: アルトのための二つの歌 作品91
鎮められた願い (アイヒェンドルフ)* **
聖なる子守唄(デ・ベーガ)* **
(後半)
高橋悠治: 長谷川四郎の猫の歌 (委嘱初演)
猫の歌*、おかし男の歌**、白鳥の歌* **、
あさのまがりかどの歌**、花火の歌* **
チャールズ・マーティン・レフラー: 四つの詩 作品5* **
ひび割れた鍵 (ボードレール)
ジーグを踊ろう、角笛の音は悲しく、セレナード (ヴェルレーヌ)
(アンコール)
マックス・レーガー(高橋悠治編): マリアの子守唄(ベーリッツ)作品76-52* **
高橋悠治: おやすみなさい (石垣りん)**
波多野さんの声はしばしばメゾソプラノと称されるものの、ときに声域からみてアルトに近いとも感じられる。中音域から低音域に独自のおおらかさと深みがあって、むしろ低音の人という印象が強い。
昔々イタリア語の初級を学んだときのこと、「アルト alto」が「高い」を意味すると知って軽い眩暈を感じた。「低い」でなく「高い」なのだから困惑させられたのである(「低い」は 「バッソ basso」という)。
恐らく男声(バッソやバリトーネやテノーレ)よりも高域の声だから「アルト」と呼んだのだろう。因みに「ソプラノ soprano」は「スーパー」「スープリーム」と同語源だろうから、「更にその上」という意味で名付けられたに違いない。
面白いことにフランス語でヴィオラのことを「アルト alto」という。どうしてそうなったのか詳らかでないが、音域的に声の「アルト」と同等だから、そう呼ばれるに至ったのではないかと思う。
だから今夜の企ては「アルトvsアルト」ともいうべき、同音域の声と楽器のデュエット的な対峙と融合の稀な試みなのだ。プログラム冊子にある波多野さんの口上はこうだ。「
メッツォ・ソプラノとヴィオラという "脇役的楽器" をふたつ混ぜ合わせて、コクのある音楽会ができないのかな──と思ったのが今日のプログラムの発端です」。
ヴィオラ伴奏(本来はヴァイオリン伴奏だそうだが)という
レベッカ・クラークの珍しい民謡編曲で始まった演奏会だったが、朗々たる川本さんのヴィオラに比して波多野さんの声がちょっと不調気味で音程が定まらずヒヤリとする。続く
シューマンの歌曲(これは高橋悠治のピアノ伴奏)もなんとなく焦点が定まらなかったが、漸く最後の「月の夜」で復調し、本来の深みと拡がりを取り戻す。
そして
ブラームスの二曲。これは目覚ましく、惚れ惚れするような聴きものだった。弦のアルトと声のアルトが響きあい、絡み合い、呼び交わす。そして控え目だが含蓄深いピアノがそっとさりげなく寄り添う。その美しさはまさに無類だ。波多野さんは「今日のプログラムを考えたとき、真っ先にこのブラームスを思いついた。でも、そのあとはまるで思いつかなかったのだけれど…」と合間のトークで告白されていた。
ここで休憩。
後半は打って変わって
高橋悠治の新作、波多野さんの委嘱作の初演である。ブラームスとなんという違いだろう。長谷川四郎の珍しい詩作に基づいた不思議な音楽だ。ここで聴かれるのは「歌」というより「呟き」、独り言の世界だ。元の長谷川の詞がそうなのだが、標題の「猫の歌」は少年と野良猫の出逢いと別れを七十年後の(!)老いた少年がふと思い起こす、という不思議な設定。それを少年のような老人=高橋がボソリと述懐するような独特の可笑しみがある。五つの小篇それぞれがヴィオラだけ、ピアノだけ、ヴィオラとピアノ、といったふうに伴奏を変えて繰り出される。再演は難しかろうが、いつかまた聴いてみたい。
続く
レフラーの歌曲集はその存在すら知らなかった稀少な音楽。よくぞ見つけ出してきたものだ。ドイツ生まれで欧州各地を転々とし、ベルリンとパリで作曲を学んでアメリカに定住…というコズモポリットの珍品である。
この曲に関する限りレフラーの音楽はフランス近代そのもの。一聴した印象はさながらフォーレか、いやむしろショーソンの「果てしなき歌」の世界に近い。ふたりの「ヴィオラ」とピアノが三者三様に奏でる嫋々たる世紀末の美にうっとり酔い痴れる。高橋のピアノのなんという味わい深さ。これが聴けただけでも今夜は値千金である。
そしてアンコールは、今夜のために高橋がヴィオラのオブリガートを書き足したという
レーガーの優しい子守唄。そして、前にもたしかこの回で唄われたことのある高橋の「
おやすみなさい」でひっそり締め括られた。
素晴しい会だった。未知の曲との出逢いの愉しさに満ちていて、音楽の世界はまことに広大無辺だなあと実感させられた一夜。