1960年代後半から今日までクラシカル音楽とのつきあいもかれこれ四十年以上になる。とはいっても、のめり込むように躍起になって聴いたのは中学三年生からのほんの数年間のみ。1975年からは憑き物が落ちたように聴かなくなり、1990年代初めまで殆ど没交渉のまま無為に過ごした。
だから今日に連なる古楽器演奏の勃興も、ブルックナーやマーラーの交響曲が復権を遂げる過程も、まるで他人事のように感じながら脇をすり抜けて今日に至る。時代に取り残されたロビンソン・クルーソーのような偏屈な鑑賞者なのである。
あれはたしか2001年夏のことだったか、仕事でアムステルダムを訪れた。正確に言うなら、所用はこの街ではなくロシアのサンクト・ペテルブルグで果たすことになっており、アムステルダムにロシアへ同行する新聞社文化事業部のMさんと落ち合うため、ほんのニ、三日滞在しただけなのだが。
スキポール空港から列車でアムステルダム中央駅へ。そこからホテルまではトラムで移動した。部屋で旅装を解いたのが夕方六時過ぎ。ただし真夏とあって外は昼のような明るさだ。合流するMさんの到着は明日なので今夜は何もすることはない。そこで矢も盾もたまらずにホテルを飛び出し、地図を片手に運河沿いの並木道を歩き始める。なにしろアムステルダムは初めて訪れた街なのだ。
ホテルで貰った地図に拠れば、この大通りをしばらく行くと、右手に広い公園があり、そこにアムステルダム国立美術館、アムステルダム市立美術館、ゴッホ美術館が軒を連ねているらしいが、開館時間は疾うに過ぎている。明日にしよう。
更に地図に目を凝らすと、その公園から道を一本隔てたあたりに「重要な文化施設」のマークがあり、なんとそこには Concertgebouw と特記されている。どうやら所在地は今こうして歩んでいる道筋のほんの数分先であるらしい。そう思って彼方に目をやると、左前方にそれらしい褐色の古めかしい建造物が見えるではないか。間違いない、あの建物だ。昔から音楽雑誌やLPジャケットで馴染んできた由緒ある楽堂アムステルダム・コンセルトヘバウの外観である。
いよいよ近づいてみると、四方八方から群衆が足早に参集し、コンセルトヘバウの入口にどんどん吸い込まれていく。これから演奏会が始まるのだ。
…と、ここまで一気に綴ってきて、まてよ、この話はなんだか前に一度ここで書いた憶えがあるぞと気づく。調べてみると、やっぱりそうだ、二年前に同じ話題を取り上げているではないか(
→お前はいったい何番なのだ?)。
とほほ、致し方ない。ここからは以前の文章をほぼそのままコピー&ペイストする。
時計を見ると、七時二十五分。開演間近とおぼしい。咄嗟に「今ならまだ間に合うかも」という思いに駆られ、全速力で交差点を渡り、切符売場で当日券をもぎ取るように手にした。曲目を確かめる暇もあらばこそ、走りながら横目でポスターを盗み見たら "Gustav Mahler" の文字がちらと読めた。息せき切って会場に駆け込むと、小生の背後で扉が閉まり、最後列に着席するや、当夜の指揮者リッカルド・シャイーが登場、擂鉢状の舞台の階段を早足に駆け降り、おもむろにタクトを振り下ろした。
聞き憶えのない曲だ。マーラーであることは一聴して明らかなのだが、はてさてこれは何番の交響曲なのか。とんと見当がつきかねる。
いくら疎いからといって、第一、第五、第九番ならすぐにわかる。楽章が進んでも声楽が加わる気配がないので、第二、第三、第四、第八番ではありえない。ということは第六か第七なのだろうか。大編成なのに、室内楽的な精妙さで奏でられ、ところどころ無調と見紛うような不協和音が鳴り響く。いったい、これは何番なのだろう。
あれよあれよと言う間に一時間数十分が過ぎて全曲終了。盛大な拍手に加わりながらも、情けないことに、最後の最後までそれが何なのか分からず仕舞いだった。
当夜の演奏会はこの一曲だけ。帰り際に慌ててプログラム冊子を入手したら、なんと「第十番」。デリク・クック補筆完成版とある。
そうだったのか! 道理でシェーンベルクみたいに響く箇所が散見するはずだ。
事程左様にマーラーにはまるで不案内だという話なのである。こんなことをふと思い起こしたのは、珍しくも今日マーラーのディスクを手に取ったから。
二年前のこの日はヘレヴェッヘの指揮した歌曲集「子供の魔法の角笛」を手にしたのであるが、奇しくも今日はその同じ「
子供の魔法の角笛」と
第十交響曲とを組み合わせたディスクを聴く。
ピエール・ブーレーズが指揮した新盤である。
マーラー:
歌曲集「子供の魔法の角笛」* **
交響曲 第十番
メゾソプラノ/マグダレナ・コジェナー*
バリトン/クリスティアン・ゲルハーアー**
ピエール・ブーレーズ指揮
クリーヴランド管弦楽団
2010年2月12、13日、クリーヴランド、セヴェランス・ホール(実況)
Deutsche Grammophon 477 9060 (2010)
ブーレーズがこの歌曲集を録音するのは初めてではないだろうか。収録曲順と担当歌手は以下のとおりである。
1. 歩哨の夜の歌**
2. 無駄な骨折り*
3. 不幸なときの慰め**
4. この歌を作ったのは誰?*
5. 浮世の暮らし*
6. 起床喇叭**
7. 魚に説法するパドヴァのアントニウス上人**
8. ラインの小伝説*
9. 塔の囚われ人の歌**
10. 喇叭が美しく鳴り響くところ*
11. 高き知性への讃歌*
12. 少年鼓手**
曲順は刊行譜どおり。「起床喇叭」が六曲目に入り、最後は「少年鼓手」で締め括られる。他の交響曲でも歌われる「三天使が優しい歌を唄う」と「原光」は省いてある。ブーレーズはすでに録音済みだからだ。
どこにも誇張やデフォルメのない、繊細で敏感で肌理細やかなブーレーズの伴奏がすべてを方向づける。民謡の鄙びた味わいや軍楽隊の灰汁の強いリズムに代わって、マーラーの管弦楽法の精妙さが前面に出てくる。
独唱者たちもその線に沿って端正に歌う。誇張やデフォルメはご法度だから、行儀が良すぎて物足りない歌唱といえるのだが、指揮者の目配りが隅々にまで行き渡った、美しく彫琢された透かし彫りのような「角笛」といえようか。ただし、この行き方を貫くならば、是非とも時間をかけたセッションが組まれるべきで、本盤のように定期演奏会の本番とリハーサルを継ぎはぎした演奏では不徹底の謗りを免れまい。
聴きものは
第十交響曲。奏されるのは生前に完成したアダージョ楽章だけだが、精妙の果てに深淵が待ち構えているような凄味が漂う。殆ど耽美的なと形容したくなるほど美しく整えられた演奏だが、完璧に統御された音楽には覚醒と冷厳の気配が色濃く、聴く者の陶酔を許さない。だがその呪縛力はちょっと比類がなく、もしも生演奏で聴いたならば金縛りにあってしまいそう。