今年が歿後二十年にあたる
小倉朗さんの記念演奏会があった。前々から楽しみにしていた。実演でもディスクでも滅多に聴けない室内楽とピアノ曲ばかり集めた貴重な一夜なのである。この機を逃したなら次はもうないだろう。
生前の小倉さんにお目にかかったことのある家人も同道した。早めに着いたので松屋デパート地下の珈琲屋で一服。丁寧に淹れてあって美味しいのだ。
没後20年 小倉朗 室内楽作品展
19:00~ 銀座、王子ホール
小倉朗:
■ピアノのためのソナチネ (1937)*
■ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ (1960)**
■弦楽四重奏曲 ロ調 (1954)***
■舞踊組曲~二台のピアノのための (1953)****
■木下夕爾の詩による八つの歌 (1956)*****
■フルート、ヴァイオリン、ピアノのためのコンポジション (1977/86)******
ピアノ/高橋悠治* *****
ヴァイオリン/木野雅之** ******
ピアノ/水月恵美子** ******
パシフィック・クァルテット・ヴィエナ***
ニ台ピアノ/山本悠加、山本彩加****
メゾソプラノ/波多野睦美*****
フルート/一戸敦******
ニ十歳そこそこの「ソナチネ」から最後の室内楽(1977)年まで、四十年にわたる作品群で小倉さんの生涯を回顧する。そこから立ち現れるのはやはり時代と共に生き、変貌していった誠実なひとりの日本人作曲家の相貌であった。
お辞儀も早々に高橋悠治が「
ソナチネ」を弾き始める。たちまち惹き込まれてしまう。ラヴェルかサティか、ひょっとするとプーランクのような「ソナチネ」は同時代のパリで初演されてもおかしくない、簡潔で瀟洒な可愛い音楽。刊行されていなかったら、ご当人の手で「焼却処分」されていたはずだ。でも残されてよかった。
そのあと戦中・戦後の「古典模写」時代のブラームス風の作品はほぼ完全に湮滅したので、その俤は1954年の「
弦楽四重奏曲」から偲ぶしかない。重厚な形式感と対位法はその名残なのだろう。第二楽章のピッツィカートがたいそう小気味よく響く。終楽章の躍動感はすでに紛れもない小倉さんなのだけれど。
ほぼ同時期の「
舞踊組曲」は管弦楽版では馴染んでいるのだが、二台ピアノで聴くとバルトークばりの鋭角的なリズムと響きが耳に突き刺さる。これは若い姉妹デュオの演奏スタイルのせいばかりではなかろう。
「
木下夕爾の詩による八つの歌」もまるきり初めて聴く。波多野睦美の懐かしく語りかけるようなの歌唱(すべて暗譜だった)も、不思議な空間的な拡がりを醸す高橋悠治の玄妙なピアノ伴奏も、これまで耳にしたことのないような親密な音楽を響かせる。C'est l'extase délicieuse. こよなき魅惑のひととき。
円熟期に入ってからの作品であるヴァイオリンとピアノのための「
ソナチネ」、晩期に属する「
フルート、ヴァイオリン、ピアノのためのコンポジション」はさすがに小生がよく知った小倉さんの声がする。残念ながら演奏の密度は今ひとつ。
これまで小倉さんの管弦楽曲ばかりで小編成の音楽をほとんど耳にしてこなかったので、すべての曲がひどく新鮮に響いた。作曲年代がさまざまということもあって、その表現の多様さにちょっと驚いてしまった。
今年初め
高橋悠治がネット上に「
小倉朗のこと」と題して実に示唆的な一文を綴っている。その全文が今日のプログラム冊子にも再録されていた。拙ブログでは前にも引用したが(
→形や技法が消えた後の持続する響き/未完)、ここでも少し引く。
その頃作曲家たちは貧乏だった。小倉朗の年譜には、生活に困窮する、ますます困窮する、というような記述が数年ごとに見られる。根っからの都会人で繊細なひとだったが、べらんめえにふるまっていた。書けない、というのが口癖で、いかにも説得力のある口調でそれを言うので、弟子までがそういう気分になるほどだったが、古典的な意味での「主題」、詩の最初の一行のように、核になる音のうごきを見つけると、しごとは集中して速かった。本人は構成技法の修行の成果と思っていたのだろうが、むしろ集中と瞬発力、ほとんど体力の問題とさえ言いたくなる。[…]
かれの音楽は身体と深いところでつながっていたのだろう。
今日の演奏会でも後半の冒頭で高橋悠治が登場してちょっとしゃべった。「亡くなって二十年、もうそろそろ今までとは違った演奏の仕方、受け止められ方が出てきてもいいのではないか」とぼそっと語ったのが心に残った。
同じ意味のことはこの文章の末尾にも語られている。深く重い問いかけだ。
20年がすぎて、小倉朗の音楽にまた出会うとき、時間に洗われて、いままで見えなかったなにかが見えてくるだろうか。それは加藤周一がかれの音楽に見たような「形になった感情」かもしれないし、形や技法が消えた後の持続する響きかもしれない。生は苦しく、死もまた苦しい。音楽は水面に射し込む光だったのか。記憶のなかの時間は年代記のような線でなく、順序もない点が集まり、また散っていく。
その「
形や技法が消えた後の持続する響き」を、たしかに今日の高橋悠治のピアノはひっそり奏でていたように聴いた。