バレエを観ることは滅多にない。年に一度あるかなきか。客席の浮わついた雰囲気が性にあわない。音楽をなおざりにしている上演があまりに多いし、旧態依然たる名技偏重にも鼻白むばかりである。
行きたいと言い出したのは家人のほうだ。なんでも 《
小さな村の小さなダンサー》 という映画を観て、俄然
オーストラリア・バレエ団が観たくなったのだという。先日の誕生日を機に二人分のチケットを入手して出向くことになった。
今夜の演目は『
胡桃割り人形』。ただしストーリーは完全に換骨奪胎され、原作のE・T・A・ホフマンとはまるきり別物だ。オペラ界では既に常套となった「
読み換え」の手法がバレエにも適応され、残ったのはチャイコフスキーの音楽だけである。
台詞のあるオペラでは時代設定を移したり、人間関係を置き換えたりの「読み換え」を施しても、全く異なった物語が出現することは起こり得ない。ゲルマン神話が現代劇に、17世紀のマントヴァ宮廷が20世紀のマフィア社会に変ずることはあっても、歌詞はそのまま手つかずだからストーリーの骨子は動かない。
ところがバレエの場合、音楽は物語の内容を殆ど規定しないので、そこにいかなるプロットをあてがうこともできる。早い話、『白鳥の湖』の音楽をそのままに用いて、「ハムレット」や「嵐が丘」や「忠臣蔵」をバレエで踊ることも(原理的には)可能だろう。
オーストラリア・バレエはほかでもない、まさにその『白鳥の湖』の「読み換え」版を当たり狂言にしているバレエ団なのである。
ジークフリート王子をチャールズ皇太子に、オデットをダイアナ妃に、オディール(実はロットバルト男爵夫人)をカミラ夫人にそれぞれ擬し、どろどろの三角関係の物語として巧妙に再構築して、世界のバレエ・ファンの目を瞠らせた。2007年の来日公演でも披露されているから、知っている人も多いと思うし、DVDにもなっている。この秀逸な読み換え版『白鳥の湖』はその振付家の名をとって
グレアム・マーフィ版と呼び慣わされている。
前置きが長くなったが、今日の演目である彼らの『
胡桃割り人形』もまた、同じこのマーフィ振付の「読み換え」版なのである。チャイコフスキー=ペチパ版の原作バレエがペテルブルグのマリインスキー劇場で初演されて百周年、というから1992年に舞台化され評判になったものという。世評の高い『白鳥の湖』に先立つこと十五年。まだ古典バレエの「読み換え」自体が珍しかった時代だったはずだ。
原典と同様に、バレエはクリスマス前夜の夕方の場面から始まる。ただし季節は夏の真っ盛り。ここは南半球なのだ。路地裏の空地では貧しい街の子らが遊びに余念がない。このあたりの描写は『
ポーギーとベス』か、ワイルの『
ストリート・シーン』でも観ているような按配だ。次第に日が暮れてくる。音楽はまだ始まらない。
そこに覚束ない足取りで老女が買物から帰宅する。部屋に入ると疲れ切った様子で坐り込み、傍らのラジオを点ける。そこから流れ出すのが『胡桃割り人形』冒頭の小序曲だ。くぐもった放送の音はやがてピットのオーケストラの生音へと引き継がれる。バレエはここから始まるといってよい。彼女の表情にえもいえぬ懐かしさが浮かび、部屋のツリーに飾られた大切そうな何か(あとでこれがバレエ学校に通っていた少女時代に授かったメダルとわかるのだが)を手に取り感慨深そうに眺める。そうなのだ、
この老女こそが主人公クララなのだ。
ほどなく彼女の部屋に男女数名の旧友が訪れる。久しぶりの再会を喜ぶ老人たち。
チャイコフスキー=ペチパの原作では良家の子女がドロッセルマイアー伯父からクリスマス・プレゼントを貰うのが物語の発端だが、ここでは真夏の大都会の片隅で老人たちが昔を懐かしみつつ、ささやかにこの日を祝うところから始まる。誰もが知る第一幕の「行進曲」も、狭い部屋で彼らがふざけて行進する場面に変ずる。
客の誰かがクララにプレゼントを手渡す。どうやらマトリョーシカだ。
彼らは南半球のロシア人亡命者たちなのである。注がれる酒も間違いなくヴォトカ。やがて映写機が運び込まれ、古いバレエのモノクロ映像が映し出される。察するにクララの若き日の舞台姿であるらしい。一同はうっとり見とれる。
久しぶりに踊りはしゃいだクララは気分が悪くなり、二階のベッドに伏せる。そこに居合わせた主治医を残して旧友たちは辞去。もう夜はすっかり更けた。
クララは深い眠りに落ち、それまでの波乱万丈の生涯を一夜の夢に見る。その夢がここからのバレエのプロットになるのである。
既に窓の外では吹雪が舞っている。
(まだ書きかけ)