締切日になると尻に火が点いたように執筆に着手。書き始めれば(たぶん)どうにかなるのだが、切羽詰まらないと取りかからないのだから困ったものだ。家人も些か呆れ顔である。
友人からのメールで
ジョーン・サザーランドの訃報を知らされる。亨年八十三。
名声も隠れなきオーストラリア出身の偉大なるソプラノである。ああ、あの顎のでかい大女だな、なぞと軽口を叩く向きもあろうが、マリア・カラスの衣鉢を継いで19世紀ベル・カント・オペラの復興に尽くした業績は不滅だろう。とにかく上から下まで素晴しく技巧的な声の持ち主だった。
ひねくれ者の小生の手元には彼女のディスクはほんの僅かしか見当たらない。だが一枚だけ、愛聴措くあたわざる「人知れず埋もれた」珠玉の名盤が秘蔵されているので、これをかけて絶世の歌姫の冥福を祈ろう。
"Joan Sutherland sings Noël Coward"
ノエル・カワード:
1. I'll Follow My Secret Heart* ~『カンヴァセーション・ピース』
2. Never More ~『カンヴァセーション・ピース』
3. Melanie's Aria ~『カンヴァセーション・ピース』
4. Charming, Charming** ~『カンヴァセーション・ピース』
5. I'll See You Again*** ~『ビター・スウィート』
6. Zigeuner**** ~『ビター・スウィート』
7. Dearest Love* ~『オペレット』
8. Where Are the Songs We Sung? ~『オペレット』
9. Countess Mitzi ~『オペレット』
10. I Knew That You Would Be My Love ~『舞踏会のあとで』
11. Bright Was the Day ~『パシフィック1860』
12. This Is a Changing World ~『パシフィック1860』 +I'll See You Again
ソプラノ/ジョーン・サザーランド
特別出演/ノエル・カワード*
共演/
マーグリータ・エルキンズ、エリザベス・ロビンソン、モラグ・ビートン**
ジョン・ウェイクフィールド(テノール)***
ジョン・リーチ(チンバロム)****
管弦楽編曲/ダグラス・ガムリー
リチャード・ボニング指揮
ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団・合唱団
1966年7月、ロンドン
Belart 450 014-2 (1993)
いやはや贅沢の極みの一枚である。
ノエル・カワードの往年のミュージカル(むしろオペレッタ)中の名ナンバーを絶頂期のプリマドンナが麗しく馨しく謳い上げる。それ以上に何を望もうか。しかも二曲ではノエル卿が自ら登場し共演する!
カワードの日記から引く。1966年7月6日の条(文中「火曜日」とは前日の5日)。
火曜日、朝ジョーン・サザーランドと録音。すべきことは殆どない。私はただ「シークレット・ハート」と「ディアレスト・ラヴ」のヴァースを少しばかり朗読しただけ。彼女の声は実にもう信じがたいほどで、彼女が大管弦楽に伴われて私の音楽を歌うのを耳にするとは類い稀な歓びだ。
第二次大戦後のカワードを落ち目だと謗るのは礼を失しよう。芝居にミュージカルにと新作は陸続と繰り出されるし、ハリウッドでの映画出演、米TVの特別番組出演、ロンドンやラスヴェガスのクラブ出演と八面六臂の活躍は戦前と変わらない。
だが時すでにビートルズとローリング・ストーンズの活躍期とあって、ウィーン流儀のオペレッタの流れを汲むカワードの音楽劇が過去のものとなった事実は否みようもない。名声と栄誉を手中にし、数年後(1969)爵位を授けられるにせよ、晩年に近づくにつれカワードに孤愁の影がいよいよ濃い。永年の盟友たるチャールズ・B・コクランもガートルード・ローレンスも疾うに世を去っている。
その彼のよき隣人にして、この絢爛たるトリビュート・アルバム(という語は当時まだなかったが)を捧げて「類い稀な歓び」を与えたプリマドンナ(とその指南役たる亭主ボニング)の心尽くしの贈り物はちょっと比類がない。
それにしてもなんと素晴らしい旋律をカワードは数多く書いたのだろう! 最後の曲が消え入るように終わって、最初の "I'll Follow My Secret Heart" がリプリーズされる直前、ほんの一瞬だがカワードの「クレド」たる "A Talent to Amuse" の一節がちらと聴こえるのが心憎い。
折角なのでLP時代の懐かしいアルバム・カヴァー(
→これ)をお目にかけよう。たしかに顎が大きいね。