最後に
荒井由実のレコードを買ったのはいつのことだろうか。三枚目以降のLPは手にした憶えがないから、ひょっとしてこのシングル盤が最後ということになろうか。発売日当日に逸早く手に入れて聴いた。その日は奇しくもわが二十三歳の誕生日の1975年10月5日。今日からきっかり三十五年前のことだ。
もう何度も書いたことだけれど、デビュー間もない
ユーミンの才能にぞっこん惚れ込んだ。ほうぼうの小さなライヴ・スポットや学園祭で行われたライヴにも足繁く通ったものだ。やがて彼女のささやかなファンクラブが結成され、その会報に記事を書くためレコーディングを見学したことがある。
あれは1975年の七月頃だったろうか。田町にあった「
スタジオA」でセッションを硝子越しに一時間ほど覗かせてもらったのだ。録音の現場に居合わせたのは後にも先にもこのときだけだ。なんでもこの曲はTBSのTVドラマの主題歌になる予定だといい、ヒットが期待できるという話だった。「
スカイ・レストラン」という曲名だ。
その日に予定されていたのは「歌入れ」といって、既にティン・パン・アレーが録音済みの伴奏トラックを再生させ、それに合わせて彼女のヴォーカルだけを収録する段階だった。なので、スタジオにはマイクの前にユーミンひとりがぽつんと佇む。硝子で隔てられたこちら側にはなにやら大掛かりな機材があって、録音ディレクターが合図や指示を送りながら録音作業が進行する。
「録音作業が進行する」。さり気なくそう書いたが、このとき目にしたのはそんな一言で表せるような生易しい光景ではなかった。
哀愁漂うギターの爪弾きのイントロに続いて彼女が冒頭の一節を唄い出すと、直ちにディレクター氏が駄目出しする。最初に戻って再び唄い始めると、またもやNGが飛ぶ。何度やってもOKが出ないのだ。音程が不確かだったり、声がふらついたり、かすれたり。理由はその都度さまざまだが、ディレクターはどんな瑕疵も見逃さず、容赦なく中断と再開が繰り返される。観ているこちらが辛くなってくるほどだ。
だんだん様子が摑めてきた。どうやら前日か、前々日か、既に一曲まるごとを収録したテープが一応できていて、それをスタジオで再生させつつ、不具合な箇所に差し掛かると、その度ごとにディレクターから指示が出され、その部分の唄い直しがしつこいほど繰り返され、満足のいくテイクが録れると次の箇所に移る…といったやり方で進行していく。なんとも根気の要る作業なのである。
修正箇所はたいがい一、二小節、ややもするとわずか一音のみの断片なので、録り直したテイクが前後とうまく繋がるのかは端で見ていても全く見当がつかない。恐らくユーミン自身にもわからないのではないか。断片を繋ぎ合わせる作業はさながらコラージュか、ジグソーパズルのような趣を呈する。この段階では完成後の全体像はディレクター氏の頭のなかにしか存在しないのだ。
ユーミンはよほど氏に全幅の信頼を置いているのであろう、文句ひとつ云わず真剣な表情で指示を仰ぎ、飽くことなくリテイクに勤しんでいた。
同じ曲をたて続けに何度も繰り返し聴かされたものだから、その場で歌詞を覚えてしまった。冒頭の一節はこんなふうだ。
街灯り指でたどるの
夕闇に染まるガラスに
二人して食事に来たけど
誘われたわけはきかない
なつかしい電話の声に
出がけには髪を洗った
この店でさよならすること
わかっていたのにファースト・アルバム『ひこうき雲』所収の「
曇り空」にどこか似通った、ほの暗いくぐもった雰囲気のたちこめる佳曲だった。哀しい別離の予感に満ちた歌詞とは裏腹に、洗練された軽快なボサ・ノヴァ調のアレンジがひどく印象に残った。イントロのアクースティック・ギターの瀟洒な爪弾きは恐らく細野晴臣によるものかと思われた。
…と、わざわざ過去形で回りくどい書き方をするのには理由がある。
このとき収録された「
スカイ・レストラン」は没になってお蔵入りし、そのまま遂に陽の目を見なかったからである。
没になった理由はTBS側が曲に難色を示したためだという。歌詞がドラマの内容にそぐわないから、とユーミン自身(か周囲の誰か)から聞かされたように記憶する。
上に引いたように「
スカイ・レストラン」の詞は都会の恋の終焉、未練といった主題を扱っているのだが、連続ドラマ『
家庭の秘密』は北海道を舞台に、両親と実の娘、養女をめぐる複雑な因縁話だったと記憶するから(ウィキペディアによれば「
幸せと思われた家庭の秘められた過去が、十九年前に誘拐された実子とその家の養女の偶然の出会いからわかり、肉親の愛とはなにかを問いながら物語が展開する」)、あからさまに男女の恋愛を打ち出した歌詞が忌避されたのは無理からぬことだ。
こうして急遽ユーミンは局側の要請を容れテーマ曲の全面的な改訂に取り組む。ただし時間はない。ドラマの初回放映は一か月後の8月21日に迫っていたのである。
やがて何事もなかったかのように、秋吉久美子主演のTVドラマ『家庭の秘密』はスタートした。この第一回目放映はたしかに観ている。ユーミンの名が冒頭で「主題歌/荒井由実」と字幕に出るのが、わがことのように嬉しかった。
聴こえてきた主題歌には心底びっくりさせられた。
泣きながら ちぎった写真を
手のひらに つなげてみるの
悩みなき きのうのほほえみ
わけもなく にくらしいのよ
青春の後ろ姿を
人はみな忘れてしまう
あの頃のわたしに戻って
あなたに会いたいイントロに印象的な女声スキャット(=山本潤子)が被さるので一瞬おやと思うのだが、曲そのものは「
スカイ・レストラン」と全く同一である。ミクシングこそ変えられているものの、バックのティン・パン・アレーの演奏も同じものが用いられた。歌詞をまるごと差し替えて装いも新たに送り出されたのである。
はっきり失恋の歌とわかる詞に代わり、今回の歌詞は甚だ巧妙にシチュエーションが暈かされている。「
泣きながら ちぎった写真」が誰のものかはわからないし、「
あの頃のわたしに戻って」会いたい「
あなた」とは何者なのか。如何ようにでも解釈できるよう工夫されている。まことに手際のいい職人業、プロの仕事というほかない。
下敷きになった「
スカイ・レストラン」の面影はわずかに二番の歌詞の冒頭、
暮れかかる都会の空を
想い出はさすらってゆくのの一節に微かな反映を聴きとることが可能だが、それに気づく人はいない。
こうしてユーミン六枚目のシングル盤「
あの日にかえりたい」は1975年10月5日に世に出た。
それからの経緯はここに改めて記すまでもなかろう。
「あの日にかえりたい」は同年12月には「オリコン」週間シングル・チャートの第一位に輝き、シンガー=ソングライター/ヒット・メイカー荒井由実の地歩を不動のものとした。その蔭で「スカイ・レストラン」の存在は知られずに終わった。