十月の声を聴いた途端、俄かに秋が深まってきた。果てしなく続くかとすら思えた夏もいつしか遠ざかり、草叢からは虫の音が涼やかに響きわたる。
そんな静かな秋の宵に聴くべき音楽といえばこの音楽を措いてなかろう。
エルガー:
チェロ協奏曲
月光のなかで* ~序曲「南国にて」作品50 (*=ジュリアン・ミローン編)
気紛れ女 作品17*
ロマンス 作品62
愛の挨拶 作品12*
朝の歌 作品15-2*
ソスピーリ 作品70*
チェロ/ナタリー・クライン
ヴァーノン・ハンドリー指揮
ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
2007年5月28~29日、リヴァプール・フィルハーモニック・ホール
EMI 5 01409 2 (2007)
これは小生だけでないだろうが、エルガーのチェロ協奏曲には
ジャクリーン・デュ・プレがジョン・バルビローリ卿と共演した決定的な名盤(1965年)があり、どうしてもこの演奏を指針というか、判断基準として仰いでしまうから、これを凌駕する演奏がなかなか出現しない。あるいはたとい出現しても受け入れられないのだ。
今回の
ナタリー・クライン盤はデュ・プレ盤の版元であるEMI が世に問うた、同社としては四十二年ぶりの女性奏者による新録音である。そもそもこの曲を録音する女性奏者は英国でもデュ・プレ以来このクライン嬢が初めてだというのだから、デュ・プレ演奏の呪縛がいかに強く後世にまで及んだかわかろうというものだ。
その呪縛を解くべく、EMI は「満を持して」録音セッションを組んだとおぼしい。その証拠に、三顧の礼をもって当代随一のエルガー解釈者
ヴァーノン・ハンドリー翁を指揮台に招き、往時の顰に倣って老匠の練達な伴奏で若きヒロインを支えようとする思惑が明らかだからだ。「夢よもう一度」といった按配である。
しかも同社はアルバムのカヴァーとブックレットでちょっとあくどいほどにクライン嬢の美貌を強調しアピールしようとする(
→これ、
→これ、
→これ、そして
→これ)。
そうした小賢しい目論見はともかくとして、クライン嬢の演奏そのものは上乗である。
力強いボウイングと繊細な歌心を兼ね備えた名演ではなかろうか。惜しむらくはこの曲に望まれる楚々とした含羞や嫋々たる余韻(ハンドリー翁の伴奏にはそれが感じられる)に乏しい憾みが残る。尤もこうした感想はデュ・プレの演奏との比較から演繹的に齎されたものだろうから、彼女のとっては「余計なお世話」かもしれない。
フィルアップされた六つの小品はいずれも他人の手が入った編曲物だが、それなりにエルガーらしさを醸したアレンジが施されている。もっとも演奏会のアンコールならともかく、極め付きの協奏曲のあとで続けざまに聴かされるのはちょっと辛い。願わくばディーリアスかウォルトンの協奏曲との組み合わせで聴きたかった。