東京行きの車中で朝日新聞を拡げたら『芸術新潮』最新号の広告が出ていた。巻頭特集のゴッホが大々的に喧伝される傍らに小さく「第2特集 音楽と絵画、ふたつの才能に愛された芸術家
チュルリョーニスを知っていますか?」という惹句と馴染深いチュルリョーニスの写真が小さく配されている。
管見の限りでは、わが国の美術雑誌がチュルリョーニスを特集したのは、1992年にセゾン美術館で展覧会が催された際、たしか『みづゑ』だったかが小特集を組んだだけと記憶する。近い将来に展覧会の予定もなく、アニヴァーサリー年でもない今、この雑誌がなぜチュルリョーニスを採り上げたか判然としないが、永年この芸術家に惹かれてきた小生としては「ついにこの日が来たか」という感慨を禁じえない。
目的地の池袋に少し早く着いたので、駅前の書店で早速これを手に取る。
期待とともに頁を繙く。巻頭の「ゴッホ特集」が六十頁近くを費やしているのに対し、二番手の「チュルリョーニス特集」はその半分の分量なのはまあ致し方なかろう。それでも限られた紙数に少なからぬカラー図版で特撮した絵画作品や自筆楽譜、リトアニア風景が散りばめられているのは嬉しい驚きだ。
チュルリョーニス研究の大御所
ランズベルギス、曾孫であるピアノ奏者
ズボヴァス、気鋭の美術館員
アンドリュシーテ=ジュキエネ女史へのインタヴューも、それぞれ短いながら簡にして要を得ている。地図や年表、リトアニアの歴史を手短に辿った文章も親切だ。かてて加えて、綴じ込み附録CDとして、昨年リトアニアで出たばかりのランズベルギスの最新録音二枚組からピアノ小品八曲(二十数分)が抜粋されているのは、チュルリョーニス音楽への最良の導きであろう。
ただし、褒められるのはここまでで、肝腎の本文がいかにも脆弱である。全体を劃然と「音楽篇」「絵画篇」と前後二分した構成は果たしてよかったのか。
「絵画篇」の文章は無署名なので恐らくは編集部の執筆になるものと察しられるが、チュルリョーニスの生涯の事績をただなぞっただけで、彼の絵画の醸しだす馨しい香気や底知れぬ魅惑に手が届かない隔靴掻痒の出来。閃きのない平板な解説にとどまったのがいかにも残念である。望蜀の嘆なのか。
さらに無残なのは、音楽・文芸評論家を名乗る小沼純一なる人物の「音楽篇」である。貴重な誌面の三頁、ざっと四千五百字もの分量を費やして、ここまで空疎な駄文を弄しては、そもそも評論家の名に値すまい。チュルリョーニスの名こそ頻出するものの、その芸術の特質とも魅力ともおよそかけ離れた散漫な字句がただ羅列される。これをもし国語のテストで「要旨を述べよ」として出題されたら、さぞかし生徒たちは困るだろう。内容がまるで無いからだ。編集部は人選を誤ったというべきである。チュルリョーニスの音楽を語れる日本人はいないのか。否、きっといるはずだ。