(承前)
その後も
島多代さんにお目にかかる度にこのマヤコフスキーの絵本のことが話題になった。二年前にお会いした際には「挿絵画家ボリス・ポクロフスキーの歿年がやっとわかった。1933年だったのよ」と告げられた(
→ここ)。歿後七十年以上も経過していて、マヤコフスキーのテクストともども疾うに著作権は消滅しパブリック・ドメインに入っており、絵本を翻訳するのも覆刻するのも許諾を求める必要はなかったのだ。国際子ども図書館HPにこの絵本をまるごと掲載しようとして果たせなかった島さんは「もっと早くわかっていればねえ…」といかにも悔しそうにおっしゃった。
島さんから先日いただいた電話も実はそれに纏わる用件だった。
「やっと判明したと思ったポクロフスキーの歿年が間違いだった。同じボリス・ポクロフスキーでも、1933年に亡くなったのは
ボリス・イワノヴィチ・ポクロフスキーといって、松谷さやかさんの調査によれば絵本の画家とは別人なの。あの挿絵を描いたのは
ボリス・ウラジーミロヴィチ・ポクロフスキーという人なんだって」。
用件とはつまりその
ボリス・ウラジーミロヴィチ・ポクロフスキーなる挿絵画家の正確な歿年がわからないかというお尋ねだった。
すなわち小生の手元にある2009年モスクワで出たロシア絵本に関する二巻からなる空前の大著 "Детская иллюстрированная книга в истории России 1881-1939" (
→「ロシア絵本の壮大なアンソロジー」)で、そのポクロフスキーのことを調べてみてほしいという要請だったのである。
早速その重たい二冊本を書庫から引き出して調べにかかる。図版数は1800、収録画家は190人という大部な研究書だけあって情報量も半端ではないのだ。
あった、確かにその名は記載されていた。
Покровский Б. В.
1898(?)─?
График
В 1920 ─ 30-е гг. занимался оформлением и иллюстрированнем книг, в том числе детских.
けれども記述はたったこれだけだ。「1920~30年代にデザイン、児童書を含む書籍の分野で仕事をした」。残念ながら歿年はここでも明記されていない。
そう島さんにお伝えすると、翻訳は既に
松谷さやかさんの手でなされており、順調にいけば八月中に絵本として翻訳刊行される、とおっしゃった。しかもこの絵本の原本を、島さんの監修で九月から国際子ども図書館で開催される「
絵本の黄金時代」という展覧会にも出品するのだという。
その翻訳絵本が今こうして出来上がって目の前にある。
ところでマヤコフスキーの詩そのものは疾うの昔に瑞々しい日本語に訳されている。冒頭の一連を引く。
鼻先で水を切って
海をあるく汽船たち。
おこった風が吹いてきて、
小さなヨットを追いかける。
夕方ごろでも、まよなかでも、
海を行くのはむずかしい。
小笠原豊樹と
関根弘の共訳になる先駆的な『
マヤコフスキー選集』第三集(飯塚書店、1958)に収録されていた。この邦訳「
海と燈台についての私の小さな本」がふたりの詩人、岩田宏(=小笠原豊樹)、関根弘どちらの手になるのかは詳らかにしないが。
最後の一連も再録させていただこう。
わたしの本が叫びます。
「こどもたち、
燈台のようになりなさい!
くらくて航海できないひとの
道をあかりで照らしなさい」
それをみんなに言うために
この本のことばとスケッチを
かいたひとは
マヤコフスキー小父さんです。
折角なので今度の松谷女史の新訳からも冒頭を少しだけ引かせていただく。
へさきで 波を 切り
汽船が 海を 行く。
はげしい風が
帆船を 追いかける
夕ぐれも
夜ふけも
航海は
とても むずかしい。
そして最後の一連。絵本では後半が省かれているのは先述したとおり。
わたしの本が呼びかける。
「子どもたちよ
灯台のようであれ!
くらやみで 航海できない人たちのために
明りで 行く手を 照らすのだ!」
半世紀後の新訳もなかなか調子の高い名訳である。
刊行された絵本は版型もレイアウトも原本をほぼ踏襲していて1920年代ロシア絵本の雰囲気を彷彿とさせる。これには企ての張本人である島さんもさぞかし満足されていることだろう。
既に述べたとおり、マヤコフスキーが自分の苗字と同音の灯台(маяк)に自らを擬えてこの詩を書いたことは間違いなかろう。「我こそは暗闇を照らす灯台なり」という意気込みなのだ。絵本の巻末で
亀山郁夫はこう解説する。
理想社会を実現するには […]
老人も若者も、生みの苦しみに耐え、力を合わせていかなければならない。ロシアの未来を託すべき子どもたちには、少しでも早く、献身や自己犠牲の何たるかを教えこまなくてはならない。マヤコフスキーがこの小さな絵本に託したメッセージとはそのようなものである。そこには、革命詩人として矛盾だらけの人生を送った彼自身の自戒も含まれていた。しかしそれでも彼には、すべてをやり尽くしたという達成の思いがあったのではないか。「行く手を、照らすのだ」、「灯台」たれというメッセージには、確実に「わたしのように生きてほしい」という詩人自身の私的なメッセージも込められている。
なるほどそうかもしれない。「私は灯台だ」「私のように生きてほしい」というわけだ。
だがこうも云えはしないだろうか。灯台の明かりが必要なくらい、君たちの将来は暗い闇なのだ、とマヤコフスキーはここで仄めかしているのだ、と。
思うに、この詩を裏打ちする強い調子の自負と矜持はいわば両刃の刃でもあって、そう謳い上げる「マヤコフスキーおじさん」が果たして「灯台」たりうるのか、マヤコフスキー=灯台守と呼ばれる資格があるのか、と綴られた詩句が逆向きのヴェクトルでほかならぬ詩人その人に向かって不断に問いかけていたのではないか。
云ってみればこの詩はマヤコフスキーにとっての「雨ニモマケズ」なのであって、高い理想を掲げながら「かくあれかし」と切に希う作者自身の願望を書きつけたものとみるべきかもしれない。曰く「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。そして、そういう者になることができないと悟ってしまった「私」は、この絵本から僅か三年後に自ら死を選んだのではなかろうか…。
小生の解説も引かせてほしい。『芸術新潮』のために語った言葉の採録である。
詩人は1930年、みずからピストルで命を絶ちます。男女関係のもつれのためとも、秘密警察がらみの他殺かもしれないともいわれている。当時、芸術家たちへの表だった弾圧はまだはじまっていませんでしたが、マヤコフスキーの死がやがて訪れる時代の暗黒を先取りしていたのは事実でしょう。そう考えると、さっきの灯台の詩は死の4年前のものですが、いまのソ連は真っ暗闇だという不吉な遺言のようにも思えてしまう。[…]
国家が芸術家を必要とし、芸術家も国家を必要とした輝かしき十数年間がこんな末路を迎えるなどと、いったい誰が予想したでしょうか。