数日にわたって二十年前の小倉朗さんの死を追憶した締め括りに、先日たまたま見つけた鮮やかな回想文を紹介したい。
高橋悠治が小倉朗の弟子だったというと誰もが怪訝そうな表情になる。反前衛の古典主義者の門下からバリバリの最前衛が出たのだから訝しく思えて当然だ。
小倉さんとの会話で、高橋悠治と妹の高橋アキに音楽の手ほどきをした話を聞かされた。「悠治はその頃まだほんの子供で、自転車にも乗れなかったので、まず乗り方を教えてやったんだ」とかつての師はいかにも愉快そうにそう言い放った。
以下に引かせていただくのは、教え子だった当の高橋悠治の証言だ。シンプルに「
小倉朗のこと」と題されている。彼とその仲間のサイト「水牛のように」に掲載されたものだ。今年になって書かれた文章とおぼしい。
1948年頃だったか、團伊玖磨にハーモニーの基礎を習っていたとき、鎌倉由比ガ浜の貸間で、レッスンの日にも、先生はしごとで不在ということがよくあった。鍵もなく、だれもいない部屋に入って待ちながら、かってに押入をあけて積み重ねられた楽譜をながめていると、ドアがあいて、麦わら帽子の日焼けした人が顔を出し、おや、こどもがいるな、と言ったのが、小倉朗との初対面だった。
数年後、小倉朗の『舞踊組曲』オーケストラ版初演の夜、その頃の習慣で、作曲家たちが日比谷でのコンサートの帰りに新橋の「鮒忠」の二階で飲みながら、聞いたばかりの仲間の新作を論じ合い、小倉朗は自分のスコアを筒のように丸めてテーブルを叩いていた。帰りの電車は鎌倉までいっしょだった。年譜によると、それは1954年の1月だった。柴田南雄に習っていた時だと思うが、まだ15歳の少年がなぜそんなところにいたのだろう。
さらに数年後、浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の小倉朗に出会って、作曲を習うことに決めた。ところが、かれはその頃海釣りに熱中していたので、まず習ったのは自転車の乗りかた、その後は夜の海岸に出て、魚はほとんど釣れず、帰り道の魚屋で魚を買って、かれの家で日本酒を飲む、そんな日々のなかで、ベートーヴェンのスコアをピアノで弾くことを習い、オペラ『寝太』や、民謡によるオーケストラ曲、合唱曲などの書いたばかりのスコアを見せてもらい、現代音楽批判を聞かされ、作曲ができなくなってしまった。
その『寝太』の初演のために練習ピアノを弾いたのがきっかけで二期会に雇われて数年間オペラの練習や歌や合唱の伴奏をして生活し、また偶然から現代音楽のピアニストになったので、後から考えれば、こうして逸れていった軌道は、作曲の生徒として順調に進むよりはまなぶことも多かった、その結果かれの音楽からも離れてしまったにしても。
1948年頃、という記憶が確かならば高橋悠治はわずか十歳、小倉さんも三十二歳といったところだろう。初対面の互いの印象が「おや、こどもがいるな」「麦わら帽子の日焼けした人」とそれぞれ記されているのがなんだか可笑しい。
日比谷公会堂で小倉さんの「舞踊組曲」が初演されたのは1954年1月14日のこと。森正が指揮した東京交響楽団の第五十九回定期演奏会。回がはねたあと若い作曲家たちが新橋の居酒屋で意気盛んに呑みかつ語る。自作のスコアを丸めて卓を叩く小倉さんの姿が十五歳の少年の目を通して鮮やかに活写される。
「さらに数年後」というのだから、1956、57年頃と察しられるのだが、再会した小倉さんの姿が高橋のなかではまたもや「浜辺で向こうから歩いて来た麦わら帽子の」と記憶されているのが可笑しい。そして正式に師事し作曲を学び始めた高橋が小倉さんからまず習ったのが「自転車の乗りかた」だったという逸話が語られる。いつか小倉さんが語っていたのと同じエピソードだ。
オペラ『寝太』(1957年11月27日初演)の練習ピアニストを高橋悠治が務めたという話は初耳である。それが契機となってピアニストとしての腕を買われ、やがては現代音楽の作曲家兼ピアニストとなっていったという道筋も。「その結果かれの音楽からも離れてしまったにしても」という述懐はなんとも含蓄深い。
志向する音楽が古典と前衛というふうにまるきり背馳してしまってからも、不思議にも小倉さんと高橋兄妹との交流は途絶えはしなかったようだ(吉田秀和の場合は友の裏切りだったが、こちらは教え子の自然な成長過程と思われたのではないか)。
もう三十年近く前になるが、高橋悠治・アキ兄妹がストラヴィンスキー生誕百年の夕を催したとき、プログラムにはストラヴィンスキーのソナタや「ペトルーシュカ」とともに何故か小倉さんの「舞踊組曲」の二台ピアノ版が組み込まれた。小倉さん自身も後半その舞台に立たれ「
ストラヴィンスキーとその時代」について講演された。もうどんな話だったか思い出せないが、手許に残るリーフレットによれば会場は神奈川県立音楽堂、1982年10月5日のことだった(因みに当日は小生の三十歳の誕生日であり、同じその日の昼のニュースでグレン・グールドの訃報が伝えられた)。
さて上に引いた高橋悠治の回想にはまだ続きがあり、全文を引きたい誘惑に駆られる。そこには小倉さんの創作の核心、というか作曲家から見た作曲家の内奥の秘密とでもいうべきものが驚くべき洞察力によって綴られているからだ。
1960年前後のわらべ歌による一連の合唱曲を評して、高橋は呟くような文体でこんな重要な指摘をする。
呼びかける言葉のリズムと抑揚が自然に唄に変わる時うまれる単純なメロディーを重ねたり、ずらしたり、また音程をひろげたりせばめたりして色調を変化させているが、一つの響きのなかで停まっては、ページをめくるように別な響きに切り替わる。区切られた色の平面を組み合わせた音楽の創りかたは、小倉朗が追求していたはずの古典的な構成への意志とはちがう、もっと直感的な、瞬間と色彩へのこだわりに見える。かれが批判していたストラヴィンスキーの『春の祭典』や『パラード』のサティのキュビズムに近い。
「古典的完成」としばしば評される60年代末から70年代にかけてのオーケストラ曲も、高橋の鋭敏な耳には次のような企てとして響いていた。
リズムにのってうごくかたちを映してゆれる音楽の表面と、それを織り上げる古典的な技法は、その底に半透明な層になってひろがる響きの持続に包まれている。ドミナントは音楽家の心だ、と小倉朗は言った。だが、かれの音楽のドミナントは、古典的なドミナント、解決に向かって音楽をうごかす劇的な物語をもったドミナントというよりは、それぞれの場面を彩る中心的色調としてのドミナントのようにきこえる。
(まだ書きかけ/10月18日につづく)