用心のためアラームを仕掛けておいたのだが、五時四十五分になったら自分で目が覚めた。濃い珈琲を淹れて呑み、ヴェランダで一服したら漸く覚醒。筆記用具と携帯CD再生機、読みさしの新書を鞄に放り込んで六時半に出発。さすがに暑さはまだ耐えがたいという程ではない。
ラッシュの時間には少し間があるのだろう、座席に坐れはしないが、押し合いへしあいは免れる。吊革に摑まって本が読めるのがありがたい。そのあと地下鉄と私鉄二本を乗り継いで正味二時間かけて埼玉県の川越に。南大塚というなんの変哲もない駅の小さなロータリーを目にした途端「ああ、ここは何度か降りたことがある」と思い出す。最後に来たのはかれこれ十数年前になろうか。ここから五分ほど歩いたところにM印刷の工場があるのだ。
指定された時刻は朝の九時。
くだんの展覧会カタログがいよいよ印刷に入るので、直前に試し刷り(
刷り出し)を行い、その場に立ち会いながら状態を確認しGOサインを出すのが今日の任務である。ここで何か不具合が見つかればその場で印刷機を止め、必要な修正を施す。
カラー頁は別途デザイナー氏がチェックされるので、小生が点検するのはモノクロの文字頁のみ。既に二度も校正刷をチェックしたあとなので、この段階では些細な瑕疵は見逃し、何か致命的な誤りが見つかった場合のみ対処する方針で臨む。
堆く積まれた紙の束。あちこちに重ねられたパレット(荷台)の山。忙しく走り回るフォークリフト。典型的な印刷工場の風景である。出迎えてくれたPD(プリンティング・ディレクター)Sさんとは初対面だが、旧知の山田政彦さん(今は独立してデザイナー)と同期入社だとのことで話が弾み、すぐに打ち解けた。
事務所脇の小部屋に招じ入れられここで待機。やがて営業担当のT女史も到着した。待つこと暫し。実際に刷りながらの確認作業なので準備に手間取るのが刷り出し立ち会いの常。淹れていただいた珈琲を呑みながらひたすら待つ。
「刷り出し」の言葉どおり、出てくるのは拡げた新聞紙を倍したような大きな紙。そこにカタログの各頁が所定の位置に配分され(面付け)、片面に十六頁が刷られている。これを二つに裁断したものを「折(おり)」といい、表裏併せて十六頁分が一枚に刷られた状態をなす。このままでは壁新聞のようだが、これを規則どおり折り畳んで無駄な部分を切り取るとちゃんと十六頁分の薄冊になる。この「折」を順番どおり連結していけば分厚い本になるのである(この説明では要領を得ないだろうが)。
ともあれ今日は刷り出された大きな紙を即座にチェックする。もう細かく読んでなぞいられない。前回の修正箇所を中心に眼で追いながら確認。大丈夫、ちゃんと直っている。挿図の刷り具合も上乗だ。
途中で美術館のM女史から緊急の電話が入る。今日たまたま出品作の借用に出向いた(「集荷」という)のだが、集荷先で実見した作品の色調がカタログ収載のカラー図版とまるで趣が異なるのだという。修正できないかとの問い合わせだ。手持ちのカメラで現物を撮影した画像をこれから送るので、それにあわせて色を補正してほしいとの要請である。
う~む、これは難題である。直したいのは山々なのだがこの段階での修正はぶっつけ本番なのでうまくいくかは運否天賦。かてて加えて補正の基準が甚だあやふやだ。デジタル画像は再生するモニター毎に色調が大きく異なるので客観的な信頼度が低いのである。いろいろ検討した結果、このまま直さず行くことにし、出先のM女史にそう伝える。なんとも苦渋の決断である。
このように展覧会カタログでは作品が到着する前に図版を印刷してしまう(さもないと初日に間に合わない)ので、展示作品と色味が異なることが往々にして起こる(というか、必然的結果として確実に起こる)。いつだったか、ゴッホ展のオープニング会場でカタログの図版と実物とを照合したら、ほぼ全作品の色調が甚だしく違っていて吃驚したことがある。ふと脇を見ると、同じように作品と図版を見較べながら渋い表情で佇む人がいる。なんとカタログ制作を担当したS氏その人であった…。
閑話休題。先述したとおり作業時間の大半は「待ち」で費やされた。
刷り出された本紙の点検は十五分ほどで終わる。片隅にサインすれば完了。すぐに正式に印刷に入る。そのあとはひたすら待機して次の刷り出しを待つ。なにしろ数千部を刷らなければ次に進めないのだから時間がかかる。たっぷり一時間は待たされる。ちょうど半分出たところで昼休憩になった。
Sさん、T女史と一緒に近所の定食屋まで食べに出たら猛烈な熱気に見舞われる。川越界隈は東京都心よりも更に二度ほど気温が高いのだという。界隈には街路樹もないので路上を歩くのは灼熱地獄さながらだ。
そのあとの作業も午前中と同様ひたすら「待ち」。ときおり煙草を吸いに出るのだが工場敷地で喫煙が許されるのは駐車場の一郭のみ。表のあまりの暑さに閉口して早々に退散。そのあとも部屋でずっと続きを「待ち」。
百頁近くをざっと点検して、ひとつ小さなミスを見つけたが、この段階で訂正するには及ばないと判断。そのままGOサインを出した。
すべての点検作業を終えご挨拶して工場を後にしたら四時半を回っていた。
だいぶ日は傾いていたものの外気はまだ噎せ返るよう。ほうほうの体で南大塚駅に辿りつくと、人身事故だとかで西武新宿線は殆ど動いていない。一時間に一本か二本だという。結局そのまま西日の照りつけるホームで四十分は待たされた。全くもって今日はひたすら「待ち」に徹した一日だった。