散歩から帰宅して郵便受を覗いたらクッション入りの封筒が届いている。形状から察するに中身はCDに違いない。そうか、もう月末なのだからそろそろ届いてもいい頃合である。荷解きしてみたらやっぱりそうだ。
"パレー/フランス管弦楽曲集"
"French Music: Bizet, Chabrier, Ravel & Debussy
Paul Paray: Detroit Symphony Orchestra"
ビゼー: 『カルメン』組曲(抜粋)*
ビゼー: 『アルルの女』組曲 第一番*
シャブリエ: 気紛れなブーレ**
ラヴェル: 組曲「マ・メール・ロワ」**
ドビュッシー: イベリア ~「映像」***
ポール・パレー指揮
デトロイト交響楽団
1956年11月8日、デトロイト、ヘンリー&エドセル・フォード楽堂*
1957年3月19日、デトロイト、ヘンリー&エドセル・フォード楽堂**
1955年12月3日、デトロイト、(旧)オーケストラ・ホール***
Grand Slam GS-2051 (2010)
あれは五月中旬のこと、久しぶりに
平林直哉氏から電話をいただいた。なんでも最近は古いオープンリール・テープの収集に打ち込んでいるのだという。ステレオ時代の到来とともにセミ・プロ仕様の2チャンネルの
オープンリール・テープ音源がLPと並行して発売されていた一時期があり、それらを中古市場で見つけ出して再生すると同時代のLPとは比較にならぬほど素晴らしい音がするのだという。たまたま米国マーキュリー社から1960年代初めに発売された
ポール・パレー指揮デトロイト交響楽団の音源をいくつか入手したので覆刻することにした由。
ポール・パレーのステレオ時代(1955~62)の全音源は90年代に当のマーキュリーから入念なリマスタリングを施したCDが既に出ているので、いくら著作権(正確には著作隣接権)が切れたとはいえ、わざわざ覆刻するには及ばないと思い、電話口でそう意見を述べると、流石に「盤鬼」と自称するだけのことはある、氏はすかさず自信たっぷりに「
それがそうぢゃないんだ。聴いてみると現行のCDよりも遙かに情報量が多い豊かな音がする。恐らくCD化に際しマスターテープのテープヒスを低減させるため、高音をカットしているせいだろう」と宣まう。本当かなあ。
数日後に届いた試作CDを耳にして驚いた。論より証拠、確かにニュアンスの豊富なまろやかで芳醇な音がする。馨しい響き、といいたくなる。
平林氏からの電話の用件はライナーノーツの執筆依頼であった。ポール・パレーはわが鍾愛の指揮者であり、フランスで出た唯一のモノグラフがたまたま手許にあったことも手伝い、四年前に氏がLPから覆刻したベートーヴェンの「田園」+「第七」のCD(Grand Slam GS-2010)に評伝めいた一文を寄せたことがあって(
→ここ)、そのことを氏は憶えていてくれたのである。「なにしろもう覆刻作業だけで手一杯だからライナーまでとても手が回らないんだ」との言葉に釣られ、またぞろ安請け合いで執筆を引き受けてしまったという次第なのである。
さあ、それからが大童だった。パレーの生涯のあらましはもう既に書いてしまったし、かといって並の曲目解説などウィキペディアを読めばわかるので誰も必要とはすまい。そもそも本盤を手にするのは相当コアなすれっからし連中に違いないのだから間違ってもいい加減なことは書けないぞ。常日頃からニッポンの音楽ライターたちの無知蒙昧と不勉強を散々なじってきた小生だが、ようやくそれが天に向かって唾する所業だったのだと悟った。われとわが身の不甲斐なさに恥じ入るばかり。
そこで辞書と首っ引きで手許のモノグラフを再読し、平林氏提供の文献やネット上でみつけた新出アーカイヴ史料をさんざん漁って一箇月かけ必死で書き上げた。
本盤のライナーノーツ執筆における最大の難所は、当時たまたまオープンリール化された少数の音源に拠っているため、選曲が些か寄せ集めの印象を与えかねないこと。すべてフランス近代音楽ではあるものの、時代的にも傾向的にも少々バラけていて脈絡を欠く憾みがある。
そこに一本くっきり筋を通し、「そうではないのだ、これらの曲目にこそ気骨と信念の指揮者ポール・パレーの神髄があるのだ」とばかり言葉を尽くして力説した。それが単なるこじつけや強弁に終わっていないことをひたすら祈るのみ。既に活字になっちまったので後悔しても今更もう遅いのだ。
それにしても、と届けられた完成版CDを聴きながらつくづく痛感する、ここには確かに剛毅と繊細を併せ持った不世出の音楽家がいるのだ、と。
市販されるのは月末とのこと。HMVのサイトからも購入できるようだ(
→ここ)。
(追記)その後どうやら発売日が延期され八月二十日になったらしい。またその頃に改めてお知らせしよう。