妹は北海道へ避暑に出掛けている。友人は遠く北欧へと旅立った。
羨ましい限りである。ここではない、どこかへ! 蒸し暑い千葉にひとり居残るのも癪なので映画館の涼しい暗闇に避難することにした。ただし近所では碌な番組が掛からないのではるばる新宿まで遠出。駅からいちばん近い
新宿武蔵野館へ。
ハロルドとモード 少年は虹を渡る
1971
パラマウント
ハル・アシュビー監督作品
製作/コリン・ヒギンズ、チャールズ・B・マルヴヒル
脚本/コリン・ヒギンズ
撮影/ジョン・A・アロンゾ
音楽/キャット・スティーヴンズ
出演/
バッド・コート、ルース・ゴードン、ヴィヴィアン・ピックルズ ほか
(口上)
生きることの意味を見いだせず、死の幻想に酔い、自殺を夢見る19歳の少年が、自由を謳歌して生きる79歳の老婦人との出会いを通して、恋を知り、青春の喜びや悲しみ、痛みに触れ、人生を歩みだす姿を描く。上流階級の教育熱心な母親と軍人の叔父に囲まれる暮らしの息苦しさ、嫌悪、体制と若者の対立といった構図の中で、過去の絶望的な体験から、何ものにも縛られないで生きる天真爛漫なモードの明るさに導かれ、やがて青春と決別する日々を、シニカルでナンセンスな70年代ふうの笑いと少年の心情に寄り添い、励ますようなキャット・スティーヴンスの歌を散りばめながら綴る。
冒頭いきなり主人公の首吊り自殺シーンから始まるので吃驚。しかもそれを目撃した母親が一顧だにしないのに二度吃驚。自殺未遂は少年の趣味(!)であり、そのことによってしか母の関心を惹くことができないと彼は信じているのだ。
いかにも大富豪らしい母は豪邸に住み、自己愛の権化のような存在でいつも社交に忙しく、息子を精神分析医に通わせ、見合結婚を画策し、高価な新車を買い与え、ファナティックな軍人である叔父に身柄を委ねたりするが、まるで奏功しない。
それにしても自殺未遂(というか自殺パフォーマンス)を繰り返し、買ってもらったジャガーを霊柩車に改造し、縁もゆかりもない他人の葬儀に参列するのが唯一の愉しみというのは余りにも悲しすぎる。
こんな途方もない寓話(そう、グリム童話にでもありそうな非現実的な話なのだ)に痛切なリアリティを与えているのが「永遠の少年」
バッド・コートの痛々しいまでに脆弱な無力感と自閉したニヒリズムだ。『
バード★シット』の少年から「空を飛ぶ夢」を取り去った存在と言えばいいだろうか。
ハル・アシュビー監督はキャスティングの達人である。身勝手を絵に描いたようなブルジョワ母を巧みに演じる
ヴィヴィアン・ピックルズは馴染のない倫敦の女優だが、アシュビーは
ケン・ラッセル監督のTV映画『
イザドラ・ダンカン』(1966)でのピックルズの戯画すれすれの熱演を観て「あの映画のように演じてくれるなら…」と彼女に白羽の矢を立てたのだという。
シニカルでブラックでひたすらビザールな少年の生活に救いをもたらすのが、葬儀の場で偶然出会ったひとりの型破りな八十近い老女である。
他人のものは自分のものと心得たモード婆さんは平気で路上の自動車を乗り逃げし、枯れかかった街路樹を引っこ抜き、バイク警官を出し抜いて森まで出掛けて植えたりする。傍若無人で無軌道な振る舞いながら、人生は一度だけ、やりたいようにやるのよ、といった爽やかな気概が溢れていて一向に憎めないのだ。御年七十五歳でこのヒッピーの大先達のような老婆を生き生きと演じた
ルース・ゴードンに脱帽だ。これくらいチャーミングなら十九歳の自閉少年を魅了したとしても無理はないと思えてくる。彼女は大変な才媛であり、ジョージ・キューカー監督作品『アダム氏とマダム』(1949)の脚本を(ご主人と共同で)執筆したこともある由。小生はクリント・イーストウッド主演作品『
ダーティーファイター』(1978)でライフル銃をぶっ放す剛毅な老婆役しか知らなかったが。
そうそう、忘れずに付け加えるなら、この破天荒なモード婆さんの人物造形がよほど魅力的に思えたのだろう、フランスの
ジャン=ルイ・バローはこの脚本(あるいは原作)の舞台化権を買い取って、ジャン=クロード・カリエールに翻案させ、十歳年上で当時七十代後半だった愛妻
マドレーヌ・ルノーに捧げている(演出は勿論バロー自身)。その芝居『ハロルドとモード Harold et Maud』はルノー=バロー劇団の当たり狂言として来日公演(1977)でも上演された筈だ。なのでこっちのヴァージョンのほうがむしろ映画よりも日本では知られているかもしれない。
正直に告白するが、これまでアシュビー監督作品にさほど好意的に接してこなかった。ジャック・ニコルソン主演『
さらば冬のかもめ』(1973)には愛着があるものの、ジュリー・クリスティ、ウォーレン・ビーティ、ゴールディ・ホーン共演の『
シャンプー』(1975)にも、ピーター・セラーズの遺作『
チャンス(=ビーイング・ゼア)』(1979)にもどこか物足りなさを禁じ得なかったし、好きだった女優ジェイン・フォンダ主演の反戦ドラマ『
帰郷(=カミング・ホーム)』(1978)の胡散臭さには腹立たしささえ覚えたのだ。どうしてそうなのかはもう正確には思い出せないのだけれど。
それ以降80年代の諸作は全く未見のまま監督は88年に癌で早世してしまった。亨年五十九。もう名前すら忘れかけていたのである。
こういうとき名画座があればなあ、と思ったときにはもう遅い。