ジガ・ヴェルトフ Дзига Вертов(1896~1954)はソ連映画最初期のドキュメンタリー作家としての評価のみ先行し、一向に実態の伴わない映画監督である。
1970年前後ゴダールが先人の顰に倣って「
ジガ・ヴェルトフ集団 Groupe Dziga Vertov」の名のもと集団創作により急進的な作品を発表したとき、われわれはこの尖鋭な響きをもつ名を初めて耳にした。
ヴェルトフの提唱した「
キノ・プラウダ(映画真実)」の理念が第二次大戦後フランスで「シネマ・ヴェリテ」へと継承された、と聞かされているものの、「キノ・プラウダ」と題された肝腎のドキュメンタリーそのものを目にしたことがなかったのだ。
今日から神田駿河台のアテネ・フランセ文化センターでいよいよスタートした特集上映「
ジガ・ヴェルトフとロシア・アヴァンギャルド映画」はこの欠を補い、われわれの蒙を啓こうとする企てである。監修者の井上徹さんのマニフェストを引こう。
アヴァンギャルドとは何か。未知の領域に接する最前線で〈向こう側〉へ足を踏み込む前衛だ。20世紀初頭、科学を武器として工業文明を本格化させた人間は、世界や自分自身のイメージをつくりかえ、新しい芸術文化を生み出していく。アヴァンギャルド運動は、その大きな流れに自覚的に加わり、未来の芸術を先取りしようとした。そして、19世紀末に工業技術の結晶として生まれた「映画」こそが未来を切り開く道具になると考えた若者たちが、ロシアにも登場する。ヴェルトフ、エイゼンシュテイン、ドヴジェンコ、その他……いずれも独自のベクトルで、映画を通じて人間活動の新たな領域に挑んでいった。
社会に出るタイミングで1917年のロシア革命に立ち会った彼らは、煽動宣伝の世界に活躍の場を見いだす。ジガ・ヴェルトフは革命直後に映画界へ入り、革命を伝えるニュース映画を作りながら、反革命軍との国内戦が続くなか、煽動列車に加わり煽動宣伝の最前線へと飛び出した。そして、キャメラを人間の視覚を拡張し、新しい認識をもたらす道具として活用する〈映画眼〉を提唱し、映画の可能性を追究する実験を推し進める。一方、エイゼンシュテインは、観客に衝撃を与える芸術を求めて演劇から映画界に転進し、ソビエト無声映画の黄金時代を現出した。しかし、〈事実〉をキャメラでとらえることを重視するヴェルトフからの批判を招き、映画の本質をめぐる論争を展開した。ウクライナやドイツで新しい芸術運動に出合ったドヴジェンコは、物語に依拠しない映像詩の領域を開拓する……。
ロシア・アヴァンギャルド映画は、いわゆる実験映画だけではない。多様な映画人がそれぞれの前線を発見し、新しい映画言語の創造と格闘した。そこから生まれた作品は、決して「歴史の一コマ」ではない。今もなお未知の領域に触れていて、われわれを刺戟する。この特集を見た者は、そのことを改めて確信するだろう。
今日の第一回目の演目はほかでもない、そのジガ・ヴェルトフ映画の真骨頂たる『
キノ・プラウダ Nos. 1~9』、すなわち全部で二十五作あるという「プラウダ映画版」、「映像によるニュース速報」の最初の九本(1922)、である。日本にはプリントが存在せず、ウィーンのオーストリア映画博物館から借用しての上映なのだという。
いきなりキャメラは路上で衰弱して餓死寸前の浮浪児の姿を捉える。革命の理念の崇高さとは裏腹に、ロシアは飢餓と貧困に喘いでいたのである。続けて映し出されるのは解体されたロシア正教会から運び出された豪奢な品々、それらを点検分類する鑑定家たち、そして特権と居場所を奪われ困惑する聖職者たちの姿。「これらを売却した収益で孤児たちを救うのだ」という意味の字幕が入る。
これが1922年、すなわちソ連邦成立当初の紛れもない「プラウダ」=真実なのだ。
当時ロシアじゅうの耳目を集めていたのは内戦終結に伴う軍事法廷、すなわち反対派たる社会革命党 Партия социалистов-революционеров (エス・エル)党員に対する一連の裁判の成り行きだった。「キノ・プラウダ」は間近にキャメラを据え、収監先から召喚される被告たち、海外から招かれた著名な弁護人たち、さらには検察側のブハーリン、ルナチャルスキーらの姿をつぶさに映し出す。被告の女性幹部が毅然と熱弁をふるうさまは無声映像ながら実に生々しい。
こうした国家的な一大事と並行して、庶民生活の片々たる日常茶飯事、たとえばモスクワ市内での交通事故やら保養地チタの長閑な水浴場面、戦車が農地開墾に駆り出された奇妙な光景、新聞売り子の少年や市電の女車掌のはたらきぶり、キノ・プラウダの面々による屋外での「出前上映」風景などが次々に映し出される。
一見とるに足らぬような「三面記事」にこそ、映画新聞たる「キノ・プラウダ」の面目が躍如としている。映像の鮮やかな直截さ、ウィットのある絶妙なカット繋ぎは、少し後にフランスで撮影された
ジャン・ヴィゴの詩的なドキュメンタリー『
ニースについて』を彷彿とさせる。周知のとおり、ヴィゴ作品の撮影者
ボリス・カウフマンはほかでもないジガ・ヴェルトフ(本名ダヴィッド・カウフマン)の実弟なのである。
この特集は8月7日まで。この貴重な『キノ・プラウダ』上映は7月30日にあと一回あるだけなのでお見逃しなく。日参すればヴェルトフの主要作があらかた観られるほか、
アレクサンドラ・エクステルの奇天烈な衣裳が目を惹くSF映画『アエリータ』、
アブラム・ローム監督による秀逸なホーム・ドラマ『ベッドとソファ』、"最後のボリシェヴィキ" と綽名された
アレクサンドル・メドヴェトキンの小さな傑作『幸福』など、必見作が目白押し。熱中症の危険を冒しても駿河台の坂を登るべし。