朝から抜けるような青空。眩い真夏の陽光と湧きあがる雲。これでも梅雨明けはまだというのか。
家人は英会話教室とかでいそいそと外出。蒸し暑い室内に籠もっているのが馬鹿らしくなって小生も自転車で海辺までひと走り。
灼熱の太陽が照りつけていても、波打ち際はなんと爽快なことか。
空気が澄み切っていて遙か彼方にアクアラインの海ほたる、対岸の横浜まで見渡せる。湾に突き出しているのはディズニーランド、右手の見慣れない塔は建設途中のスカイツリーだろう。思いのほか波が高く、防潮堤を歩いていると飛沫が降りかかる。手近な岩に腰をおろして一服。頭上ではひっきりなしに鷗が飛び交う。
持参したディスクをウォークマンでかけてみる。波音にかき消されながら耳を凝らす。
ディーリアス:
海の彷徨(藻塩草)*
フロリダ組曲
バリトン/トマス・ハンプソン*
チャールズ・マッケラス卿指揮
ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団&合唱団*
1990年8月、スウォンジー、ブラングィン・ホール
Argo 430 206-2 (1992)
ディーリアスを聴き始めてきっかり四十年になる。今や伝説的に語り継がれる
ケン・ラッセル監督のBBC時代のTV映画『
夏の歌 Song of Summer』のNHK放映(1970年2月19日)に触発され、バルビローリ指揮による同名曲を輸入盤で探して聴いたのを皮切りに、当初は管弦楽小品ばかり愉しんでいたのだが、やがて声楽入りの「
日没の歌」(ビーチャム指揮)、「
告別の歌」(サージェント指揮)、最後の作品「
牧歌」(バルビローリ指揮)にも食指を伸ばし、さらには大作「
生のミサ」、歌劇『
村のロメオをユリア』などの新録音を貪るように聴いた。
こうして遍歴を重ねるうち、ディーリアスの真情が最も素直に迸り出た傑作に漸く出逢うことができた。それがウォルト・ホイットマンの詩篇に基づくバリトンの独唱と混声合唱と管弦楽のための一種のカンタータ "
Sea Drift" である。わが国では永らく「
海流」と呼び習わしてきたが、出典の詩集『草の葉』での章題に従い「
海の彷徨」か「
藻塩草(もしおぐさ)」と呼ぶのが好もしかろう(詳しくは
→ここ、
→ここ、
→ここ)。
聴き始めてすぐに悟った。これは間違いなくディスクで聴くディーリアスの「
海の彷徨/
藻塩草/
海流」のなかで最上の出来映えである。かつてリチャード・ヒコックス指揮の旧盤(Decca)について小生はそう断言したような気がするのだが(
→ここだ)、マッケラスのは更にその上を行く入神白熱の演奏なのだ。
なによりもまずオーケストラと合唱との一体感が素晴らしい。マッケラスはこのカーディフの歌劇場の音楽監督を五年にわたって務めており、ここで聴ける充実したアンサンブルはその薫陶の賜物なのだろう。加えてソロを委ねられたハンプソンの瑞々しい歌唱。当時三十五歳というから、ノーブル(グローヴズ盤)、シャーリー=クァーク(ヒコックス旧盤)、ターフェル(ヒコックス新盤)の誰よりも若い。ホイットマンの詩句にある少年の無垢な眼差しを率直に切々と伝える素晴しい声である。
マッケラスの指揮ぶりは奇を衒ったところのない正攻法の行き方なのだが、この曲に内包される切実な詩と真実をかくもドラマティックに大きく描き切った演奏は例がないのではないか。魂を鷲摑みにされる思いだ。
それにしても、この大海原を彷彿とさせるディーリアスの曲は、目前で寄せては返す波しぶきとなんと見事にシンクロすることか。自然の息づかいそのままの音楽がここにある。蓋しマッケラス卿畢生の名演であろう。